衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月02日    火曜日     第2 回の開示 合計7回の開示

禅定の方法で参禅してはならない

悟りを開き心を明らかにして本性を見るには、参禅・話頭を参究する・公案を参究する方法を用いて初めて如来蔵を証得し、真如の心である第八識を明らかにできる。所謂「参」とは、意識心をもって真如の理を参究し、第八識の所在を探し求めることである。参究である以上、当然この意識心は覚醒しており、智慧と道理を備えたものでなければならず、朦朧とした昏沈状態であってはならず、ましてや定中で消失してはならない。理性的な意識心があってこそ第八識を参究し探求できるのであり、意識心が無いか、あるいは意識心が昏沈すれば参究も探求もできず、結果として何も知ることができず、心を明らかにし悟りを得る目的を達成できない。    

譬えば我々が人物を探す場合、探求する心が存在し、かつどこを探すべきか知っている必要がある。どこを探すか方法も知らず、その人物の外見も分からず、写真も持たなければ、如何なる手段を用いても人物を見つけられない。第八識真如を参究探求するのも同様で、我々は事前に第八識の体性を知らねばならず、これによって第八識の写真を手にしたことになる。第八識の写真を手にしただけでは不十分で、どのように探すか、それが通常どこに現れるかを知る必要がある。これらを知らなければ大海で針を探すが如く、徒労に終わる。

このような状況では数息法で悟りを開くことはできない。参究する心念が存在しないからである。念頭を注視する方法でも悟りを開けず、第八識を探求する心念が存在しないからである。坐禅入定の方法も悟りを開けず、定中の意識は何も知覚できないため、第八識と相応できないからである。これらは全て禅定を修める方法であって、参禅の方法ではない。数息時に注意力が数字に向かっている限り、第八識を参究探求する方向に向かわず、確実に第八識を見失う。さらに数息を長く続ければ昏沈や入定を招き、第八識を探求する機会を失う。念頭を注視する場合、意識心が念頭に囚われ、真如を参究探求しない限り悟れない。坐禅入定時は覚知が無く、参究探求する心も無いため、如何なる真理も発見できず、真如第八識を見出すこともできない。

以上の禅定を修める方法は、全て参禅証悟に用いることができず、方向性が不明確で方法も誤っており、心の使い方を間違えるため、結果は推して知るべく、何も得られない。この状態が継続すれば、ある期間修行した後に信心を失い、退転を免れない。修行過程において道理を明らかにすることが最重要であり、智慧と正知見を具えることが最も重要で、盲目的に修行してはならない。仏教徒は常に自らの修行方法と方向性が正しいか、目標を達成できるかを探究すべきである。達成できない場合は随時修行の方向性を調整し、自身に適した方法を慎重に選択すべきである。禅定を修めるには禅定の方法を用い、悟りを開くには参禅の方法を用いる。何が禅であるか、如何に参ずるか、いつ参じ始めるか等、この一連の問題を明確にし、更に自身の参禅条件が具足しているかを観察し、必要な条件を整えた後に初めて参禅を開始できる。

——生如法師の開示
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