生死輪廻と三悪道の輪廻は、意根の無明によって引き起こされます。意根の無明が破られなければ、十二因縁の生死の鎖があり、衆生は意根の無明によって六道に縛られ、出離できず、三悪道に縛られても出離できません。無始の劫以前、意根は無明のため、本我と真我を知らず、法界の実相を知らず、本当の心を守ることを知らず、心を起こして外に貪求し、遂に五陰身が虚しく生死輪廻の苦しみを受けます。意根は無明のため、内心が妄動し、そこで如来蔵は意根に従って宇宙の器世間を生じ、衆生の五陰身を生じ、三界世間法が現れます。衆生は三界で生死輪廻して無量劫、今なお終わっていません。これは意根の無明、意根の結縛のためです。修行とは意根の種々の結縛、種々の無明を断ち切ってこそ、無明に縛られず、種々の生死の束縛から脱し、解脱を得られます。
それで我見を断つには必ず意根の我見を断ち切らなければなりません。その後、意根自身の貪瞋痴の煩悩を薄めることができます。その次に、意根の貪瞋痴の煩悩を断ち切ることができます。最後に、意根の我執を断ち切ることができます。初果の時に意根の我見を断ち切らなければ、二果の貪瞋痴が薄まることはなく、三果の貪欲と瞋恚の断ち切りもなく、さらに四果の貪瞋痴慢の煩悩が尽きることも、我執が尽きることもありません。このように見ると、意根の我見は初果の時に断ち切られ、四果の時に我執を断ち切ることができます。この修行の考え方を私たちは明確にしなければなりません。
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