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七覚分略説

作者: 釋生如 分類: 二乗の解脱 更新時間: 2025-03-03 閲覧回数: 3995

七覚分略説

七覚分はまた七覚支とも呼ばれ、具体的には念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支に分かれる。

第一に、念覚支。ある法を修学し、心がその法に縁して雑念なく継続する状態が、念覚支の成就である。

仏法を修学し始めた際、ある法に縁して修行するが、縁するうちに心が転じて散乱し、その法を念じなくなると、その法は眼前に現れず、この時点で念覚支は未成就である。例えば浄土念仏の法門を修する場合、最初は仏号に縁するが、次第に散乱して仏号も往生の念も失われる時、念覚支は成就していない。ある法をある程度修め、功夫が綿密になり、念覚支が生起して法を念念不忘にする時、念覚支は修習成就したとされる。

例えば四聖諦の理を修行する時、心が常に四聖諦の理にあり、観行と苦集滅道の理の思考に集中するなら、念覚支は修得される。最初は四聖諦法を念ぜず、思惟も観行もなく、後に苦集滅道に心を縁するようになれば、縁に触れて直ちに「この法は苦である」「苦は如何に生じるか」「如何に集結するか」「如何に道を修し苦を滅するか」と想起し、心が苦集滅道から離れない時、四聖諦法の念覚支は成就したと言える。

念覚支は七覚支の第一であり、その成就は仏法修学の必須条件である。正理に念念相続できなければ、正理への精進も生じず、喜楽も軽安も起こらず、択法の決断も得られず、不如理作意や不如理の法を捨て去れず、世俗の貪瞋痴煩悩に執着し続ける。

例えば菩薩六度を修する時、常に六度の修行に心を縁し、自らの布施の功徳の積み方、持戒の状況を点検し、破戒の際に直ちに「厳格に戒を守るべき」と自覚する。禅定中に散乱すれば「今は定にないから心を収めるべき」と気づく。般若智が不足し経典を理解できない時は「般若智が未熟であるから修養すべき」と知る。法理が未達で世俗に堕する時は「般若の修めが不十分であるから精進すべき」と自覚する。このように心が念覚支の状態にあれば、菩薩六度に安住する。念覚支が成就して初めて六度を精進できる。念覚支が成就すれば心は法と相応して念念に法を念じ、未成就であれば半ばか一部のみの成就となる。念覚支成就後は常に仏法を念じ、観行を続け、最終的に仏法を証得する。

念覚支は仏法修学の初級段階である。これが成就して初めて、後の択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽安覚支・定覚支・捨覚支が成就する。自らに念覚支があるか否かは自覚すべきである。未生起の時はその事実を明確に知り、生起後はその状態を把握すべきである。念覚支が不足していれば修行を強化する必要がある。修行中は常に自心の状態と程度を点検し、自己を観察して改善に努めなければ、対治も完成もできない。

あらゆる法の修行に念覚支は存在し、その程度にも差がある。例えば唯識を修学する際、念覚支が未成就なのは正常であり、これは菩薩の道種智に属し、我々の智慧力では成就できない。しかし現段階で修学すべき法に関しては、念覚支を成就すべきである。例えば我見未断の者は、常に「五蘊空無我」の理を念じ、五蘊の生滅無常を観行し、心を我見断絶の理に相応させるべきである。この時点で念覚支が生起するが、成就・円満の可否は更なる点検を要する。

参禅の段階では、六度に関する念覚支の成就を点検し、般若智の修養度合いを確認する。心が般若の法に縁し、縁に触れて般若空性を連想し、一切が第八識の現じた法であると自覚できるか。あるいは一切の法に接する時、常に「第八識は何処にあるか」「如何に明心すべきか」「如何に証悟すべきか」「如何に参禅すべきか」「如何に禅定を修すべきか」を探求する心の状態が、現段階で保持すべき念覚支である。これを不断に増進させる必要がある。心が世俗法に流される時は、念覚支が未成就であり、心力の強化が求められる。

択法覚支。自らの内なる択法覚支が生起したか否かを知るには、法に対する弁別力を細心に点検し、一定期間の点検を経て一定の弁別力を確認できた時、内なる択法覚支が生起したと分かる。自らの修行状態・内容・程度を反観すれば、修行に段階と層次と内容が生じる。これらの段階を心中明瞭に把握すれば、現段階での修学法が明確になり、心乱れて方向を見失い、法を見るごとに修学するような状態から脱し、次第と手順を踏んだ計画的修行が可能となる。これにより自らの内なる択法覚支が修習成就したと知る。

択法覚支とは、現段階で修学すべき法に対し一定の択法力を有し、その法が正邪・大小の別、仏法体系における位置づけを理解することを指す。自らの智慧層次に相応する法に遭遇した際、正しい択法力を持って正確な選択が行える状態が、択法覚支の生起と択法眼の獲得を示す。

択法覚支を有する者は、如何なる法や説法者に遭遇しても一定の弁別力と択法力を持つ。師の説く法が大乗か小乗か、正道か邪道か、仏意に合致するか、その者の智慧層次がどの段階か、自他衆生の我見断絶を助け得るか、自他衆生の明心見性を導けるかについて、択法眼に基づく弁別と選択が可能となる。如何なる法を修すべきか、いつ修すべきかについて自ら基準を定め、正しい選択を下さねばならない。

高度な法に対する択法力が現時点で不足するのは正常である。若干自らの層次を超える法に対してもある程度の択法力を持つ者も存在するが、その力は必ずしも充分ではなく、大まかな弁別が可能な程度である。

第三に、精進覚支。択法覚支がなく、択法眼を備えていない状態で、精進できるだろうか。真の精進は不可能である。例えば二つの道のうち一方が正しく他方が誤っている時、誤った選択をすれば南へ向かう車が北へ進むように、精進の方向を誤り、精進すればするほど正道から遠ざかる。故に精進覚支が生起する前に、必ず択法覚支を具備せねばならない。

正しい修行の道・法を選択し、あるいは明師を選んだ後に初めて、特定の法に精進的に修行し、或いは師に従って精進的に修行できる。これが正精進である。択法覚支が未完成で誤った仏道を選べば、精進すればするほど精力を浪費し時間を空費する。これは邪精進であり、正精進であれば一分の精進が一分の智慧成就をもたらす。

精進には多面的要素が含まれる。例えば菩薩道を修行する際、布施・持戒・忍辱・禅定に全て精進する必要がある。明心見性へ導くあらゆる法に対して精進的に修行する。これが精進覚支である。内的精進は意根の精進であり、真の究竟的な精進である。外的精進は意識の精進に過ぎず、未だ真の精進ではなく、更に意根を熏習する必要がある。

第四に、喜覚支。一定期間精進した結果は如何なるものか。ある法の修学方向が正しければ喜楽の心が生じ、学ぶほどに心が歓喜に満ち、成就感が増し、内心に軽やかな解脱の功徳を得る。所謂る喜楽とは、内心の歓喜と法への愛着を指し、これが喜覚支である。

長期間修行しても喜覚支が生起しない場合、修学が不十分であるか、精進度が不足しているか、法の選択を誤っているか、念覚支が未成就であることを示す。正しく法を学べば、時期至れば必ず喜覚支が生起し、身心に利益を得た歓喜が満ちる。利益を得なければ喜楽は生じ得ない。例えば有用な物を得れば喜びを覚えるが、無用或いは有用性の低い物に対しては喜びを感じないのと同様である。

第五に、軽安覚支。内心に喜楽が生起した後、どのような現象が現れるか。煩悩が抑制され五蓋が軽減し、内心に軽安の覚受が生起する。これが軽安覚支である。「軽安」とは安らぎに依る意味であり、身心共に安住し、内心の軽安を表す。この段階に至れば修行するほど心が軽やかで自在となり、解脱感が増し、身心の弛緩を持続できる状態が軽安覚支の成就を示す。持続できない場合は軽安覚支が退失したことを示す。

軽安覚支は別名を軽安覚支とも呼ぶ。軽安とは内心が非常に安らかで自在であり、身体が重くない状態を指す。身と心は相互依存の関係にあり、身体に変化が起これば心も変化し、心に変化が起これば身体も変化する。心が喜楽または軽安に満ちれば身体は軽やかに漂い、身体が軽やかであれば心も安楽となる。身体が調わなければ心境も安楽自在には至らない。禅定が現れる時、身体の覚受が軽やかであれば心は必ず快樂である。法を学び極めて快樂な時、身体は必ず軽やかで安らかである。

禅定とは身と心共に定まる状態を指し、いずれか一方が欠けても禅定とは言わない。身体を離れて定を得ることも、心を離れて定を得ることもできず、両者は相補的である。禅定は軽安・軽快・自在の感覚をもたらし、所謂る軽快とは色身が重さを感じず、同時に心が快適で量が広がり、軽安の覚受が上界に相応し、人間界を離れる傾向を示す。これが定の兆候である。多くの者はこの状態に至らず、身体は依然として重く、内心にも喜楽・軽安・自在・解脱の感覚が生起しない。これは修行が不十分である証左である。

軽安の覚受が現れた段階では、行住坐臥の状態が従来と異なり、内心の状態が表情や姿勢に表れる。故に、ある者が道を有するか、どの程度修めたか、明心したか否かは、明眼人には一見して分かる。過去の禅師は慧眼を有し、弟子が参禅してある日満面春風で現れ、得道の気配を全身に漂わせれば、師は言葉を待たずして悟る。証道には指標があり、我見を断じ果を証し明心しても、身口意が従前と全く同じで差異なく、煩悩が以前より増すことはあり得ない。明心見性した直後や我見を断じた時の身心の状態は、他人が一目見て従前との差異を識別できる。軽安覚支を修めた際も同様に、身心共に変化が生じる。

第六に、定覚支。軽安覚支が成就すれば禅定が現れる。所謂る禅定とは、法への決定と身心の寂静を指す。身体は安らかに動揺せず、心は専一深細に思惟して散乱せず、不動の状態に住する。定とは散乱せず、法に縁して深く入り、外界の干渉を受けず、心が法に住することを意味する。この両方の定が具足して初めて完全な禅定となる。

未到地定が具足するまで修めると、心は沈着して集中し、法義を思惟する際も速やかに心を沈めて深く法義に入り、焦燥せず、文字表面に浮かんで深入りできない状態から脱する。この段階に至れば禅定が成就し、足を組む可否に関わらず内心が禅定と相応し、行住坐臥において定を有する。これが定覚支である。

軽安覚分の段階では初步的な定が現れる。先立つ軽安覚分が修得されなければ、後の禅定は出現しない。仮に長時間座禅を強行しても軽安覚分がなければ定を得るのは困難であり、軽安覚分を有して初めて入定が容易となり、行住坐臥に禅定が生じ身体状態に定の出現が示される。

故に喜覚支と軽安覚支を修得した後に初めて定覚支が得られる。定は喜と軽安という二つの覚分によって引き起こされ、更にその前段階には精進覚分・択法覚分が存在する。これら一連の覚支が後続の各覚支を誘発し、次第に深化する。先の覚支がなければ後の覚支も存在しない。仮にある者が果を証したと自称しながらこれらの現象が一切無いなら、それは何の果を証したというのか。ある者が明心したと称しながら身心に相貌や覚受の変化が無いなら、それは何の心を明かしたというのか。故に果の有無や明心の真偽は経験者には隠せず、身心の状態を見れば一瞥で分かる。一言も発しなくても、顔色や神情が法を得た心境を露呈する。道を有するか否かは発言内容から更に判断可能であり、明眼人を欺くことはできない。

第七に、捨覚支。禅定が生起した後、各種の心念を降伏させ、心が平等の捨境に住し、苦楽なく喜怒なく平淡で、貪執も瞋恚もなく内心が清浄となる状態である。捨覚支の「捨」は捨て去る意味を指す。元来何を捨て去る必要があるのか。内心の喜楽・貪瞋・粗重な覚観思惟・散乱・動揺を全て捨て去り、捨受に至る必要がある。二禅以前には覚観と念が残り、喜楽受が未捨であるが、四禅に至れば捨念清浄となり、一つの念もなく完全な捨が達成される。

内心に苦受と楽受があるのは散乱である。心の念が絶え間なく思想が継続するのは散乱である。禅定が生起すれば苦受を捨て、楽受を捨て、粗重な覚観を捨て、散乱した思想を捨て、過去への追憶を捨て、心念が澄み清浄となる。これが捨覚支である。七覚分を最終段階まで修め、内心の一切の煩乱と粗重を捨て去れば捨覚支が成就する。

この状態において初めて、思惟観行する仏法が内心に入り、意識の思惟が深細となり、意根が意識の思惟過程と結果を専心考量し、熏習を受け容れ智慧が生起する。内心が絶えず撹乱され清浄でなければ仏法に深入りできず、熏習を受けず智慧も生じない。捨覚支が生起する時、心は波立たぬ湖水の如く平静であり、仏法が内心に浸透して心田を潤し智慧の苗を育てる。内心が常に喜楽に満ち定力不足で心が浮動し観行不充分であれば、仏法は内心に深入りできず、証果も智慧開顕もできない。

清浄な心念は捨心でなければならない。仏を念ずる境地が良好な時、定中に仏菩薩が現れ歓喜に満ちる者が、この心境を化解できず仏菩薩の相に執着すれば心は清浄を失い魔境に入り易い。修行中に自他衆生への悲しみが絶えず、世界が苦に満ち耐え難いと感じる者は悲魔に住し、心念も清浄でない。最終的には悲と喜の両心念を全て捨て去り、平静・平淡・平穏・平等の心境に住して初めて仏法に深入りできる。最も正しい心念の状態に住してこそ観行が成就し、我見を断じ明心証悟が可能となる。

七覚支は一連の連鎖的関係にあり、前段階がなければ後段階も存在せず、これらの道程を全て経て初めて我見を断じ果を証する。これが証果の前行条件である。故にこれらの経験が一切無ければ我見を断じ得ず、どの覚支も生起せず、精進も喜楽も軽安も経験せず、法への認知が浅く観行が成就しない者、特に観行未経験者は絶対に我見を断じ得ない。三果・四果の再来者だけが今世で仏法に触れ、要所の一言を聞き稍々の観行で証果する。初証果者は必ず反復仔細な観行を要し、七覚支を全て深修して成就せねばならない。仮に再来者でも仏法接触後は速やかに覚分を生起させねば証果できない。

無始劫来初めて我見を断つ者は覚分生起が極めて緩慢で各段階が堅固安定を要する。前世で既に証果した再来者は七覚分が連鎖的に速成され、舎利弗や目連のような大阿羅漢は一瞬で禅定生起・観行成就する。彼らは前世で七覚分を完備していたが、我々は今世初修のため長期を要する。七覚分未成就または短期間で消失する場合は我見断絶不可であり、虚偽の主張は妄語である。証果者の身心には必ず変化が現れ、初步的解脱功徳の受用により転変が生じる。

仏は「内法を観じて住し、外法を観じて住し、内外法を観じて住す」と説かれた。七覚支法を観ずる際、内七覚支(意根の深層で修する)・外七覚支(意識が修する)・内外同時観に分かれる。更に法の生起を観じ、法上の心住、法滅を観じ、生滅を観じ、最終的に七覚支法のみの念を保つ。その後その念も捨て、無所有・空の状態に住し、一切の依所を離れる。これも捨覚支である。各観行後に念を捨て捨念に住し、最終的に捨念も除くことが究竟となる。

斯くして七覚支法の修了を「七覚支法を観じて住す」と称する。

仏はこの経典において七覚支を内七覚支と外七覚支に分類した。真の深層心理に生起する七覚支は意根の七覚支分を指し、表面に生起する七覚支分は意識層面の七覚支分を指す。意識が生起させる外七覚支は実際には意根の内七覚支まで熏習されていないが、真に七覚支を生起させるには主に意根の内七覚支が重要である。

念覚支は意識の外念覚支と意根の内念覚支に分かれる。意識が外念覚支を生起させても、意根が意識の熏習を受け入れることを拒めば、意根は依然として外界に攀縁散乱し、意識の念じる法に縁することを拒む。意根に念覚知が無く、意識の念じる法義を念じなければ、意識の念覚支は機能せず散壊する。意根に熏習されず内念覚支が成就しなければ、後続の覚支は出現せず、我見断絶も証果も不可能である。念覚支が真に成就する時、意識の外念覚支だけでなく意根の内念覚支の成就が必要であり、両者が共に重要である。意根の念覚支が出現して初めて後続の覚支が生起する。

意根が念念に修する法を離れなければ、日々継続的に法義に専注し思惟することが可能となり、飲食睡眠中も法を念じ思惟を離れない。このような念覚支が究竟であるため、内覚支と外覚支の双方が不可欠である。例えば意根が四聖諦法を修めようと念念に縁し、四聖諦法を明瞭にしようとすれば、意識心は意根に随順して行住坐臥中も念念に四聖諦法義を保持する。意根の心念が極めて堅固であるため、意識を牽引して意根に随従させ、この堅固な心念こそ意根の内念覚支である。

単に意識が有する念覚知は、意根の攀縁によって断たれる可能性がある。故に初步の成就は意識層面に留まり、意識の念覚知が意根を熏習して初めて意根の内念覚知が成就する。真の成就は最終的に意根に帰着する。上記から、一切の法は意根に熏習されて初めて成就し、意根に熏習されない限り意識層面の修学に留まり、法義を証得できない。

択法覚支は意識の外択法覚支と意根の内択法覚支に分かれる。外択法覚支が先に出現・成就して初めて意根を熏習し、内択法覚支が出現・成就する。意識の外択法覚支は断続的で決定力を持たず、真に修学すべき法を選択する際には未だ躊躇する。意根の択法覚支が成就すれば、自動的に正しい仏法を選択し、岐路や邪路に迷わない。

意根の択法覚支とは択法性を指し、意根の思心所が作用する。意根の思心所は極めて敏捷迅速であり、例えば突発的重大事故発生時、意識の思惟選択が未生起の段階で意根の択法性が直接作用し、回避行動を取る。一連の行動終了後、意識が初めて反応する。叉路で進路を選択する際、意識が考慮する暇もなく意根が自身の思心所に基づき選択する例も同様である。

同時に三四件の緊急処理事項が発生し意識が混乱して選択不可能な場合、意根の思心所に依存して行動を選択する。意識は意根の造作に従うのみで、考慮・選択が不可能となる。但し意根の択法性には意識による不断の熏習が必須であり、多数の法において正しい択法性を発揮する必要がある。故に意根に択法覚支が具備されて初めて精進的に法を学べる。意根に択法覚支が未完成で意識のみが具備する状態では不十分である。

精進覚支は意識の外精進覚支と意根の内精進覚支に分かれる。一切の法の修学において、意識のみが精進を望み意根が無関心であれば精進修行は不可能で法の成就もない。例えば表面上熱心に修行し経典を多数読破しても、意根が興味を持たず深考せず、学んだ法を理解し得なければ、意識の修学は走馬灯の如く表面を撫でるだけとなり、意根が心猿意馬の状態で何も習得できない。学生が授業を受ける例では「不真面目なら不合格」と知りつつ表面的に聴講し、内心は他事を考え、速読と丸暗記に頼り記憶定着せず、授業後「何を学んだか」と問われても回答不能となる。学習意欲の低い小学生は机に座って聴講する様に見えても、意根が彷徨い教師の声が左耳から入って右耳から出てしまい、全く学習効果が得られない。

意識心の表面的な精進は意根に深入りしていないため外精進・仮精進である。故にあらゆる法は意根の内精進が成就して初めて完成する。意識の外精進は浮草のように漂う。意根の内精進が成就すれば、参禅中に意識が他人と会話や茶飲みをしても、意根の内精進は影響を受けず自然に参禅を念念継続する。参禅または思量する際、意根は意識と同期も非同期も可能だが、両者が同期した参禅は単独時より深入りする。坐禅と行禅を併用し、意根と意識が同一の法に集中すれば思惟は更に明瞭となり、意識が他法塵に分散せず、意根が意識からの過剰情報を受けない状態で全心全意となる。活動中の意根と意識が分散すれば思惟は静中より浅くなる。総じて意識と意根の同期精進が真の精進である。

喜覚支は意識の外喜覚支と意根の内喜覚支に分かれる。まず意識が法義に喜楽心を生起させ、意根を熏習して内喜覚支を生起させる。意識の喜覚支は表面的で瞬時に消滅し、身心変化を伴わない。意根の喜楽心は深沈かつ堅固で全身を歓喜に満たし、後の軽安覚支を導く。意根の喜楽は眼差しや表情に自然に表れ、意識の喜楽は作為的で不真実である。

軽安覚支は意識の外覚支と意根の内覚支に分かれる。意識が粗重煩悩と蓋障を降伏させ軽安清凉を生じ、意根を熏習して身心共に軽安快適となる。これが禅定発起の前提である。

定覚支は意識の外定覚支と意根の内定覚支に分かれる。意識が禅定を生起させ意根を定に導けば内外定覚支が成立する。意識のみの定覚支は不堅固で散滅する。意根の定覚支が成就すれば念念に定中に住し、散乱昏沈なく細密思惟により真実智慧を生起する。定覚支には「修法への不動」と「禅定深入による専精思惟」の二要素が存在し、堅固に保持されれば捨覚支が修得される。

捨覚支は意識の外捨覚支と意根の内捨覚支に分かれる。禅定が生起した後、定水の潤いにより意識と意根の心念が次第に清浄澄明となり、雑念が除去され、心中に残存する法の念も漸減し、最終的に一切の念を捨て去り清浄無碍となる。最初に意識が心念と覚観を捨て、続いて意根が心念と諸見解を捨て、不喜不厭・平和中庸となる。真の捨念成就は意根によるものであり、意根が無念を求めれば無念となり、意根が執着する時は意識が制御不能となる。意根が喜楽心・瞋恨心等の一切の心行を捨てて初めて正法に深入りし参究に専念する。意根の捨念清浄時、六識は波静まる。

最終的に意識と意根が念念に七覚支法を保持し、更に心中の七覚支法を排除し、一切の法に住さず捨念清浄となる。この修行法により心中に一法も住さず、意根が如来蔵の如く一切を執着せず空々寂滅すれば、究竟の仏果を得る。修行とは刺を針で除去する如く、仏法で世俗法を排除し、深法で浅法を排除し、上法で深法を排除し、最終的に一切の法を捨て去ることで成就する。

仏法修学は衆生の無明を破るために仏法を用い、深法で深い無明を破る。無明が尽きれば仏法は衆生救済にのみ用いる。意識の外捨覚支が心中の法を捨て、意根の内捨覚支も法を捨て去れば心中は空寂となり、一切の念が無く捨念清浄となって甚深三昧に入る。定が成就すれば智慧が成就し、定中観行により法を証得する。後続の修行では如幻観・陽炎観・夢観・鏡像観等の一切甚深三昧境界を相続証得する。

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