衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月26日    金曜日     第4 回の開示 合計102回の開示

見地の違いにより行いが異なる

凡夫の見方が仏の見方と同じならば、凡夫は仏になる。凡夫の見方が四果の阿羅漢と同じならば、凡夫は四果の阿羅漢になる。凡夫の見方が三果の人の見方と同じならば、凡夫は三果の人になる。凡夫の見方が二果の人の見方と同じならば、凡夫は二果の人になる。凡夫の見方が初果の人の見方と同じならば、凡夫は初果の人になる。凡夫の見方が初果向きの人の見方と同じならば、凡夫は初果向きになり、もうすぐ我見を断つことができる。

凡夫の見方が明心した菩薩の見方と同じならば、凡夫は明心して悟りを開く。凡夫の見方が初地の菩薩の見方と同じならば、凡夫は初地の菩薩になる。二地の菩薩の見方と同じならば、凡夫は二地の菩薩になる。凡夫が等覚菩薩の見方と同じならば、凡夫は等覚菩薩になる。

見えるところまで見て、そこまで行う。見方が究極でなければ、行いも究極でない。初果から四果の間、智慧と見解は全く異なり、行いも異なり、行為や造作も異なり、身口意行も異なる。誰が初果の人の見地と四果の人の見地が同じだと思うだろうか?誰が初めて明心した菩薩の見地と等覚や仏の見地が同じだと思うだろうか?見地の違いにより、その智慧も異なり、無明も異なり、言動も異なり、身口意行も異なり、果位も異なる。

初果の人は見えることが十分に透徹していないため、引き続き四諦を修学し、五蘊十八界の無我性を観行する必要があり、智慧が更に増進すれば二果になる。更に修行を続け、智慧を増やし、見地がもう少し透徹になり、禅定が生じ、智慧が増進し、煩悩を断ち切れば三果になる。更に観行を続け、見地が更に一歩透徹になり、煩悩を断ち尽くせば四果の阿羅漢になる。

大乗法も同じで、すべて見地の違いにより、智慧に差があり、煩悩や無明に差があり、行いに差がある。

思惑は、知見が正しくないため思想上に煩悩惑がある。もし知見が完全に正しく、仏のように正しければ、いかなる思惑もなく、いかなる煩悩の習気や無明もない。だから思惑が断ち切れないのは、見方が透徹していない結果である。

見地の違いにより思惑が異なる。同じ果位の間でも、見地が異なれば、行いも異なり、思惑も異なり、次の果位に至るまでの時間も異なる。もし見地がすべて同じならば、論争や議論はなくなる。

——生如法師の開示
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