衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月16日    金曜日     第2 回の開示 合計161回の開示

業果は消えることができるか

衆生は代々悪業を造り、果報として六道輪廻に陥る。もし業果が消えることができなければ、六道輪廻に終止符を打つことはなく、衆生は永遠に仏になれない。しかし事実はそうではない。なぜ証果した後、三縛結を断ち、永遠に三悪道に落ちなくなるのか。証果する前に、まだ無数の三悪道の業種が現れておらず、業果も受けていない。これらの業種はどこへ行ったのか。衆生が悪業を造ると、仏は懺悔して業を消すことで、悪報を受けなくなるよう要求する。ではこれらの悪業はどこへ行ったのか。もし因果が必ず実現しなければ、どの衆生が仏になれるのか。

一切の法は如来蔵を除いてすべて虚しく実在しないもので、すべて夢の中の物のようである。夢の中のものは目が覚めるとなくなる。夢の中で造作したすべての行為は、目が覚めた後はもう責任を負う必要がない。虚しいものには業果がなく、そして目が覚めた後はもう悪業を造らず、もう顛倒しない。しかし夢の中では違う。夢の中で業行を造作すれば、果報を受けなければならない。

我見を断って証果するときは初めて夢から一度目が覚め、明心するとまた一度目が覚め、如幻観を証得するとまた一度目が覚め、陽炎観を証得するとまた一度目が覚め、如梦観を証得するとまた一度目が覚め、それぞれの法を証得するたびに一度目が覚める。初地に入ると一度目が覚め、二地に入ると一度目が覚め、仏になるまで夢から完全に目が覚め、この時は完全に目が覚めて、これ以降もう夢に入らず、もう夢境がない。では夢の中で造作した悪業はまだ存在するか。夢の中の人や物事は、目が覚めたら、まだ存在するか。存在しない、消えてしまい、全く見えない。仏の心の中は広々として何の法も存在せず、仏はまたどんな因果を弁償すればよいのか。どうやって弁償すればよいのか。皮がなければ毛はつかない。業果につくべき人や事や物がなければ、業果はどこにあるのか。

仏が衆生に法を説くのは、私たちに十分に認識させるためであり、私たちは皆夢を見ていて、一切の法はすべて夢の中にあり、夢から出れば、一切の法は存在しなくなり、目が覚めれば、何事もなく、良いことも悪いこともない。仏法とは迷いを破ることにほかならず、心の中に迷いがなければ、悟りであり、悟れば何事もない。

私は真実ではない、あなたは真実ではない、事は真実ではない、理も真実ではない。これらの理を認識し、これらの理を証得したら、まだ真実な人や事や物があるか。ない。まだ何の果報があるか。ない。果報も事理であり、同様に虚しく実在しない。目が覚めればすべて消える。一部を覚醒させれば、一部が消え、完全に覚醒すれば、一切の善悪の業果は全部消える。証果するとき、少しだけ覚醒したのではないか。初歩的に無我の理を証得し、六根もなく、六塵もなく、六識もない。三悪道や悪業や業果は六根六塵六識の中にあるか。肯定的にある。ならばそれはもう存在しない。果報も少しだけ消えた。

もし法を証得する程度が非常に深く、理解した理が非常に深ければ、覚醒の程度も非常に大きくなり、そうすればもっと多くの事理が実在しないことを証得し、消える事理ももっと多くなり、悪業が消えるのももっと多くなる。一旦覚醒して悟れば、どこに真実な因果があるのか。どこに真実な我や人や衆生や寿者があるのか。どこに善悪の業行があるのか。これらを証得すれば、業種は一部消える。

もし仏のように覚醒し、仏のように一切の法を認識すれば、すべての悪業の業種は全部消え、少しも悪業の果報はない。しかし仏は衆生がもう悪業を造らないように、また衆生のために悪業の果報があるように示し、衆生を警戒させる。これは衆生を救うための演技であり、仏が無量劫にわたって衆生を度化するのはすべて演技である。仏は最も優れた偉大な俳優であり、最も優れた導師であり、すべての行いは衆生の迷った心を喚起し、衆生を覚醒させるためのものである。これ以外に仏には何の個人的な私利私欲があるだろうか。全くない、完全に無我である。

——生如法師の開示
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