惑障は、思想観念上の迷いであり、煩恼障惑でもある。業障は、無量劫にわたって行った無数の業行によって生じる業報による障害である。習障は、無量劫にわたって世俗における薫染で、長い間に習慣となり、その慣性の力が非常に大きい。魔障は、天魔によって設けられた障害があり、また心魔や煩恼魔による自心で起こる障害もある。欲界を出離する能力がない人には、天魔は干渉してこない。天魔はそれが必要ないと考えるからである。多くの場合、それは人々自身の心で起こる煩恼魔障である。
これらの障害は常に仏教修行者に付きまとう。精進しなければ、それらは明らかではないが、精進して修行に励むと、道業が進歩するとき、これらの遮障は非常に明らかになり、様々な抵抗が大きく感じられる。まるで歩いているとき、周囲に風が吹いても、それは微風に感じるように、自転車に乗ると、風の力が少し大きく感じられるが、大きな問題はないが、オートバイに乗ると、風の抵抗が大きく、速度が速いほど、感じる抵抗は大きくなる。物体同士には衝撃力の問題があるからである。仏教修行も同じで、自己の無量劫以来の習慣や慣性と衝撃力があり、より精進するほど受ける障害は大きくなる。もし粘り強い意志があり、障害を恐れなければ、道業は絶えず進歩し、成就も速く大きくなる。
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