意識が無縁無故に心配し、恐れ、煩悶するものは、全て意根から来ている。なぜなら、無縁無故だから、意識は意根がこれらの情緒を持つ原因が何であるか知らないが、意識自身の原因は知ることができる。意識が発散する情緒は全て原因がある。なぜなら、意識は自身を反观でき、分析でき、思惟できるから、意識自身がなぜ怒りを起こして情緒を持つかを知ることができるが、意根の情緒を観察し分析することは容易ではない。
意識が分析できなくて思惟できなくてもなお怒りを起こし、煩悶する場合、それは全て意根から来ている。意根が意識を指揮して情緒を発散させているのである。例えば、朝起きたとき、何のことも接触していないのに、不思議なくらいに気分が悪く、心が苦しく、怒りを起こしたくなる場合、それは全て意根の思想情緒から来ている。意根がどのような考えを持っているか意識は知らないが、意根は必ず意識にこれらの思想情緒を発散させるように促す。
多くの情緒は一時的には説明しても明らかにできないもので、全て意根から来ている。さらに、意識がずっと制御しようとしても制御できない情緒も全て意根から来ている。この方面から観察すると、ゆっくりと意識と意根を区別できる。もし意識があることが良くないと知り、少なくとも心配するものがあるが、その後、意識が理性的に分析して大丈夫だと判断した場合、しかしながら心の中で依然として心配し続ける場合、あるいはますます心配する場合、これはどういうことであるか?これは意根が心配しているのである。意識が大丈夫だと言っても、意根はまだ理解できないので、依然として心配し続けるのである。
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