自己暗示法を用いて仏法を観行する時、意識は常に意根に暗示しなければならない。五蘊は虚妄で、一切の法は虚妄で、皆如来藏の機能作用である。一定の時期になると、意根は認可し、我見を断つことができ、それによって自身の潜在能力を発揮し、自身を変更することができる。このような暗示は、自己催眠に似ており、自分を比較的に静かで沈静な状態に調整し、内心の声を聞こえる状態にすることができる。この時、自己暗示を行うことができる。
上記の断我见の内容を、ゆっくりと抑揚をつけて陳述し、意根が受け入れるように導き、また意根に一定の緩衝時間を与え、意根が情報を受け取り、考えを整理し、情報の中の法義を思惟することができるようにする。これには一定の時間と、特定の環境やシーンが必要である。つまり、意根が他の問題に関注しないで、導かれる内容だけに注目し、内心が沈静で安定、祥和な状態で、意識の導きを十分に受け入れることができるようにする。もし意識がどこまで導けるか、意根がそこまで思惟できるなら、この時の意根は比較的に素直で、既に初期的に薫染されているが、ただ最後の成功には至っていない。重要な点は、意識が意根の反応を観察できるか、導く経験があるか、本当に无我の理を理解しているかである。このような導き催眠は、適切な時間とシーンで繰り返して行うことができる。意識が理論に精通し、意根を観察でき、意根を導くことができ、沈着で沈静な状態を保つことができれば、一定の期間が経過した時、必ず我見を断つことができる。
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