ある人は言う:無間に作意するとは、まるで法義が意根に深く入り込んだ後、意根だけが無間に作意することができ、念々捨てないような感じだ。実際、功德は意根の認可や転換の必然的な産物である。意根が本当に認可し、引き受けたなら、証果の功德が自然にあり、智慧もある。これは一連の自然な現象であり、法を証する根拠はやはり意根にある。
この見解は非常にすばらしい。無間に作意するとは、無間とは途切れないという意味で、意根だけが法義に縁ずることが途切れなく、一日中、朝も夜も、念々絶えずである。これには意識が仏法を熏修し、意根にうまく熏染する必要がある。意根が仏法をとても重要だと思うなら、念々仏法を懸け、心が仏法から離れない。いつか必ず仏法を証得することができる。もし意根が仏法を懸けないなら、意識の仏法に対する心念は必ず途切れ、途切れなく仏法に縁ずることができない。
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