定を修めることで思惟観行参究を保証することができる。しばらく思惟しただけで心が散らかってしまうと、禅定なしでの思惟は頭緒がつかず、考え方も明確ではない。
工夫を行い参究する過程は非常に複雑で、意識と意根の識心活動は非常に深く細かい。うまくやらなければ、工夫を行う方法がわからなければ、参究には結果が得られない。工夫を使いこなし、その中の識心活動を明らかにしなければ、どのように心を使い、どのように工夫を行うかがわからない。
意識と意根が共同で参究するとき、五識も一定の役割を果たす。そうでなければ二禅の境界になり、五識がなくなり、このような状態では思惟観行がなく、開悟することは不可能である。如来蔵もその中で相応の役割を果たす。そうでなければ七識が存在しない。
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