衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月06日    土曜日     第1 回の開示 合計25回の開示

『瑜伽師地論』巻51

原文:「又前說末那恒與阿賴耶識俱轉乃至未斷。當知常與俱生任運四種煩惱一時相應。謂薩迦耶見。我慢。我愛。及與無明。此四煩惱。若在定地若不定地。當知恒行不與善等相違。是有覆無記性。

釈:これは『瑜伽師地論』の原文で、多くの人がこの部分を間違って理解しています。彼らは皆、意根にはただこの四つの煩悩、つまり我見、我愛、我慢と無明、この四つの煩悩心所法しかないと考えています。実際に原文はこの意味ではありません。たとえこの意味であったとしても、無明という一つの煩悩はすべての煩悩を含んでおり、凡夫の意根はすべての煩悩を具えています。

ここでの意味は、意根がこの四つの煩悩といつも常に一緒に運行しており、一瞬たりとも離れないということです。恒行とは常に運行して断絶しないという意味で、意根にはまた常に運行しない煩悩心所法もあり、いつも意根と一緒に運行するわけではなく、一瞬でも常に存在するわけでもなく、時に現行し、時に現行しないのです。これらの四つの煩悩以外のものはすべて常に運行しない煩悩です。それで意根の煩悩心所は二つの部分に分けられます。一つの部分は常に現行して存在し、もう一つの部分は時折意根に伴って現行します。

意根には無明という煩悩があり、無明はすべての煩悩を含んでおり、すべての煩悩は意根の煩悩に属し、意根の煩悩から意識の煩悩が引き起こされ、すべての煩悩業が造作されます。煩悩を断つには意根の煩悩を断つことだけが究極の煩悩断ちです。もし意根にある種の煩悩がなければ、煩悩断ちをする必要がなく、修行におけるいくつかの煩雑さと障害が少なくなります。

意識に煩悩があるかないかはどちらでも構わないことです。なぜなら意識は断滅法で、意識が一滅すると煩悩も消え去り、残るのは意根だけです。意根に煩悩がなければ、衆生は生死輪廻を受けることはなく、意根に煩悩があれば、生死輪廻は避けられません。なぜ無数の人がなぜ意識にこだわるのでしょうか。それはこれらの人が意識だけを理解できる程度で、意根を全然理解できず、意根の心行を観察できないからです。だから至る所で意識論が溢れており、衆生はとても哀れなほど誤導されています。

これらの四つの煩悩は凡夫位においていつも常に現行し、断ち切られたことがなく、他の煩悩は時々あり時々ないです。我見を断った後、我見という煩悩がなくなり、他の三つの煩悩は引き続き常に運行します。四果以降、この四つの煩悩はすべて消え、心が清浄になり、もう常に運行する煩悩はなくなります(大乗法に関する無明を除く)が、習気は残り、ただ常に運行しなくなります。六つの根本煩悩は木の幹で、二十の随煩悩は枝葉で、幹が倒れると、枝葉は間もなく枯れてしまい、何も残りません。

意根の無明煩悩はすべての煩悩を含んでいます。その中の嗔煩悩は常に運行できず、時々あり時々ないです。もし嗔心が常に運行すると、その結果は想像を絶するもので、自分でも他人でも耐えられなくなり、嗔毒が間もなく色身を破壊し、命は間もなく終わり、周囲のすべての人が無限の苦受を味わい、楽受はありません。ここで特に意根に嗔煩悩があるかないかを言及していませんが、意根には絶対に嗔煩悩があります。もし嗔煩悩がなければ、私たちはもう嗔煩悩を断つために修行する必要がなくなります。意識に嗔煩悩があってもどうでもいいことです。意識は常に断滅し続け、滅びれば煩悩もなくなります。意根に嗔がなければ素晴らしいですが、実際はそうではありません。

『瑜伽師地論』の言語は非常に簡潔で、意味を十分に理解するのは非常に難しく、文字の基礎と修行上の証量が必要で、両方を結合しなければなりません。そして本当の依法とは、事実に基づくことで、事実であれば、遅かれ早かれすべての事実に合わない言論を打ち破り、真理の力を浮き彫りにすることができます。仏が説いた法でも、自分で実際に観行して、本当にそうであるかどうかを確認しなければなりません。仏が説いたすべての法は、最後に私たちが全部実証しなければ、仏になることはできません。実証して証明しなければ、対応する智慧を得ることができず、仏語を暗記するだけでは問題が解決しません。仏が言ったことが私たち自身が証得したことを代表するわけではありません。修行の最後には、すべての事実の真相に基づき、仏でさえ頼らないです。仏が説いた法は、自分ですべて実証しなければなりません。全部証得した後で初めて、完全な修行の成就と言えます。

仏が娑婆世界で説いた法は、ただ爪の垢ほどの量で、説わなかった法は大地の土のように多いです。すべての法を私たちは修学し、実証し、事実の真相を知る必要があります。そしてこの事実の真相は、人に頼るだけでは得られず、必ず実証しなければなりません。

『瑜伽師地論』のこの部分の文字にはまた一つの重要な意味があります。文中では、我見、我愛、我慢と無明という四つの煩悩は、定中でも定外でも、常に運行していると言われています。常に運行しているけれども、善の十一心所法と心が違わないと言われています。つまり、意根には煩悩心所法があると同時に、善心所法も存在し運行しており、両者は衝突しません。ここで『瑜伽師地論』では意根が善の十一心所法に相応しいと言われていますが、ある菩薩論では意根が善心所法に相応しないと言われています。二つの論が互いに矛盾していますが、もちろん弥勒菩薩の『瑜伽師地論』を基準とします。

——生如法師の開示
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