意根の反観力は、すべての衆生が持っているが、ただ意識の心が大きな知恵を持っておらず、識を転じて智になっていないときには、観察することができない。すべての法は意根が知っているものの、意識によって観察する必要がある。意識が観察できなければ、知らないことになり、意根が知っていても意識が知らなければ、まるで無駄になるように見える。
意根が知った後、何かをするには、必ず意識に頼らなければならない。意識が知らなければ、何もできない。だから、すべての人は意識の知っていることを知っていると考え、意識が知らなければ、自分自身が知らないと思い、自分自身が知らなければ、それは存在しないと言う。これは極めて多くの人の思考論理であるが、この論理は間違っている。衆生が大きな知恵を持っていなければ、すべての間違いを認識することができず、なおさら訂正することができない。衆生が自分自身の間違いと無知を認識できず、自分自身が極めて多くの誤解の中にいることを知らなければ、誤解の中から抜け出す方法がなく、目の前には永遠に霧があり、何もはっきり見ることができない。これこそが無明である。無明が重いほど、知恵を持って事実を見抜くことが難しくなり、解脱することが難しくなる。
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