識陰の「陰」は、陰蓋によって覆い隠すという意味である。六つの識だけでなく、第七識もまた第八識の真の機能作用を覆い隠すことができる。肝心なことは、誰に対して覆い隠しているのか、誰の機能作用を覆い隠して、主人公の機能作用を認識できなくしているのかである。六つの識の機能作用が第八識の機能作用を覆い隠し、意根にとって六つの識の機能作用があまりにも真実に見えるようにして、結果として第八識の機能作用が見えなくなり、意根に錯覚を生じさせる。そして、意根は六つの識の受・想・行・識陰を「我」として、かつ真実なものとして執取する。
しかし、意根は自らの攀縁性、作主性、執取性、執着性を「我」として、真実なものとして執取するのか?この点は、意根が自らを反観する能力を持っているか、自らの機能作用を観察できるかにかかっている。仏様は八つの識にはすべて証自証分があり、反観する能力があると言われている。ただ、その能力の大きさが異なるだけであり、意識がこれらの反観力を分析できるかどうかの問題である。なぜ必ず意識がこれを発見しなければならないのか?なぜなら、意識は意根の五陰身によって使われるものであり、意識は五陰身のことをうまく処理することができる。意根は背後に隠れており、暗地裡で指揮と操作を行うだけで、意識は表面上で運営と実行を行う。もし意識が状況を理解していなければ、意根のために事を処理することができない。だから、多くの人は意識自身の作用しか観察できず、意識の作用を主として、意識の作用を自分自身の真の作用と認め、意根の作用を最も主要で重要なものとは考えない。そのため、意識が理解できず、観察できない法について、多くの人はその存在を認めず、断固として否定する。
意根にも証自証分の反観能力があり、自らの機能作用を観察することができる。意識がこの点を観察できるかどうか、意識が認めるかどうかにかかわらず。そして、意根は自らのこれらの機能作用を真実と認め、執取する。それがすべて第八識の機能作用であることを知らない。本当に心を明らかにして悟りを得た後で初めて、意根ははっとして気づく。「元々はこうではなかったのだ」と。だから、我見を断ち、心を明らかにして性を見ること、どんな果を証得しても、どんな事実を理解しても、すべて意根と意識が一緒に証得し、理解したものである。これは非常に重要である。
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