衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月28日    金曜日     第1 回の開示 合計279回の開示

経典が理解できなくても法に依れるか

衆生が特定の修行段階に至らず智慧が生起していない段階では、経典を真に理解することは不可能である。多くの者は仏経を理解したと自認するが、実際は文字面の解釈に留まり、釈尊が伝えようとした思想とは懸け離れている。自己を過信する者は往々にして自らを誤る。仏が四十二章経で「汝の意は信ずべからず、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし」と説いたのは声聞弟子に対する教えである。大乗菩薩弟子に対しては「汝の意は信ずべからず、如来蔵を証得して初めて汝の意を信ずべし」或いは「唯識種智を具え如来の家に入りて初めて汝の意を信ずべし」と説かれたであろう。この境地に至って初めて諸法実相を証得し、智慧が深く開発されるからである。それ以前の衆生は少なくとも択法眼を修得した段階でなければ、法の正誤を弁別できず、師の選択も適切にできない。現に見る通り大多数の衆生は択法眼を修得せず、法と師の判断を誤っている。師の選択は名声や外相に依拠し、智慧の深浅を見極められない。自己を過信するか師を盲信するか、いずれも自らを誤る。正しく法を思惟し、師を弁別し、自らの智慧水準を客観視すべきである。最も重要なのは福徳を積むことで、福徳が具足すれば過ちが減り智慧が生じる。

『般若心経』は僅か260余字だが、十人読めば十種の解釈が生じ、百人読めば百種の説明が現れる。「法に依り人に依らざれ」と言うなら、大乗法を学ぶ者はまず心経に依拠すべきである。心経は大乗法の総綱であり、これを理解して初めて菩提を証悟できる。現状のように各人異なる解釈を抱きつつ、如何にして心経に依拠できようか。皆が「法に依っている」と自認しても、法の理解が誤っていれば真の依拠とは言えない。正しい法は唯一であるのに百人百様の解釈があれば、九十九人は誤っている可能性がある。これでは「法に依る」とは到底言えない。仏は遍く「真空妙有」を説くが、一部は真空を否定し、一部は妙有を否定する。本来矛盾する知見が互いに融合し肯定し合う奇怪な現象が何故生じるのか。原因は衆生が自らの知見を把握せず、法を弁別する力を持たないからである。故に邪見が蔓延し、邪法が広く流布する中、衆生は無自覚のまま末法の世を生きる。福徳薄き衆生は誤導を甘受し、正法の未来は危ぶまれる。このままでは衆生は熱悩の中に沈み、自救の道を失うであろう。

真空とは如来蔵を指す。真実でありながら性空で、心体には一法も無いが一切の法を顕現する。妙有とは五蘊十八界の法相が存在するように見えながら、実質は無であり、如来蔵が顕現した虚妄の法である。虚妄法も存在しないとは言えない。衆生は刹那ごとに五蘊を使って食事・着衣・歩行し、虚妄の十八界の中で生活する。見るは仮の色、聞くは仮の声、嗅ぐは仮の香、味わうは仮の味、覚るは仮の触、識るは仮の法である。五蘊の作用を否定できぬが、その存在は真実でない。衆生は日々五蘊を用いながら「五蘊は存在しない」と主張する。五蘊が真に虚妄であると心から認められる時、即ち我見を断じて阿羅漢果を証する時である。しかし五蘊の虚相すら否定すれば我見を断じ得ない。五蘊十八界の虚妄を観行できなければ証果は不可能だからである。

——生如法師の開示
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