衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年12月28日    金曜日     第4 回の開示 合計281回の開示

禅定修行と参禅の違い

悟りを開き自性を見るためには、参禅・公案参究・話頭参究の方法で如来蔵を証得し、真如心である第八識を明らめねばならない。ここで言う「参」とは、意識心で真如の理を参究し、第八識の所在を探求することを指す。参究である以上、当然この意識心は清醒で智慧と道理を備え、昏沈した状態であってはならず、ましてや禅定中に消失してはならない。理知ある意識心こそが第八識を参究・探索でき、意識心が存在しないか昏沈すれば何も知覚できず、明心悟道の目的を達せられない。

例えれば、人物を探すには探求心を持ち、どこで・如何に探すかを知る必要がある。探す場所・方法を知らず、相手の容姿や写真もなければ、決して見つからない。参禅で第八識真如を探求する場合も同様で、事前に第八識の体性を知ることが必須である。これが第八識の「写真」に相当する。しかし写真だけでは不十分で、探し方や出現場所を知らねばならず、これを知らぬままでは大海針を探すが如く、徒労に終わる。

数息観の方法では悟りを開けない。参究の心念が無いからである。念頭を観注する方法も第八識を探求する心念が無いため悟れない。座禅で禅定に入る方法も、定中の意識は無知覚のため第八識と相応できず、悟りを得られない。これらは全て禅定修行の方法であり、参禅の方法ではない。数息観では注意力が数字に向き、第八識を参究せず、長時間続ければ昏沈や入定に陥り、更に第八識を見出せなくなる。念頭観注では意識が念に囚われ真如を参究せず、悟りを得ない。座禅入定時は覚知なく、参究心も無いため真理を発見できず、第八識を見出せない。

上記の禅定修行法は全て参禅証悟に用いられず、方向性不明・方法不適切・用心錯誤の結果、当然何も得られない。この状態が継続すれば、修行を重ねるうちに信心を失い退転を免れない。修行過程では道理を明らめることが最重要であり、正しい知見を持つことが肝要で、闇雲な修行は禁物である。仏法を学ぶ者は常に自らの修行方法・方向が正しいか、目標達成可能かを検証すべきである。不可能なら直ちに方向を調整し、己に適した方法を慎重に選択せねばならない。禅定修行には禅定の方法を、悟りには参禅の方法を用い、「禅とは何か」「如何に参ずるか」「何时から始めるか」などを明確に理解する必要がある。これらの問題を悉く究明し、参禅に必要な条件が具備されているか観察した上で、各種条件を整備して初めて参禅を開始できる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

戒定慧が具足して初めて「桶の底が脱落する」

次の記事 次の記事

仏法修証の手順

ページのトップへ戻る