衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月09日    水曜日     第2 回の開示 合計313回の開示

正しい聞思こそ正しい修証をもたらす

暑い夏、道を歩く人が喉を渇かせ、一つの井戸を見つけた。井戸の水は清くて深いが、縄と水壺を探しても見つからなかった。仕方がなく喉の渇きを我慢するしかなく、清らかな水で喉を潤すことができない。井戸水があっても、自分には関係ないのと同じである。仏道を学ぶ人も同じで、口で常に空を語りながらも、求証する方法がなく、ただ空き号を叫んでいるだけで、まだ有の世界にとらわれている。常に放下することを叫んでいるが、何を放下すればいいのか、どうやって放下すればいいのかがわからず、常に執着しているのだ。それは、便利な方法や手段がないからである。解脱の方法を知ることはとても重要である。そうでなければ、井戸の縁に立って喉が渇いているようなものである。

衆生が解脱したいのであれば、必ず仏理に従って修証し、我見を断ち、五蘊十八界の空を証し、人我も四相もない境地に達しなければならない。さらに五蓋を捨て、初禅を起こし、煩悩を断ち、我執を捨て、命の終わりに三界から出て、解脱することができる。何が我で、我が何であるかがわからず、七識と五蘊に固執し、空き号で執着を破り、放下することを叫んでも、無駄なことに過ぎない。

小乗の解脱と放下には、必ず五蘊十八界の虚妄を観行し、一つの蘊ごとに、一つの界ごとに観察し、羅漢の初果を証し、三縛結を断ち、徐々に四果を証して出離しなければならない。他に道はない。外道はこの理を知らず、何年も修行して、最高の禅定を修得し、最高の天に生まれるが、定中の境地を涅槃と誤って固執し、定境は法塵に過ぎないことを知らない。知覚があれば想があり、想があれば我があり、まだ五蘊の中にいるので、生死から出ることができない。いつ解脱できるかは、はるかかなたのことである。

仏法の修行には、聞思修証がある。まず多く聞くことである。本当の仏法を聞き、仏が説いたもので、仏理に合致したものを聞く。仏説に合致しないものを聞けば聞くほど、生死が増える。次に思惟することである。理にかなって正しく思惟しなければならない。邪な考えや邪な解釈をすれば、生死がさらに増える。次に修することである。仏理に従って修する。聞くことが正しくなく、思うことが誤っていると、修行すると偏ってしまい、正しい道に乗らない。最後に証することである。聞くことが正しく、思うことが透徹し、修することが正確で、時節縁が具足して初めて、真実を証得することができる。真実を証得してこそ、本当の利益が得られる。空き号で放下することを叫ぶのは、目標がわからずに無謀に銃を撃つようなものである。多くの福徳を積み、厳格に戒を守り、常に禅定を修し、善く慧を修すれば、解脱の大道は目の前にある。

——生如法師の開示
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