衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月07日    日曜日     第5 回の開示 合計33回の開示

意根が何であれ、自分はそれである

意根の法に触れて理解することで、どれだけ多くの回り道を避け、どれだけ多くの劫の苦しい修行の時間を節約し、どれだけ多くの時劫の苦難を免れたことか。修行の理路は完全に意根にあり、意根を理解しなければ、仏になる法、仏になる道について、心中ではっきりと理解できない。意識に留まって、いつも意識でこだわっていては、意識が滅びたら、自分は何になるのか。これについて皆さんはよく思惟すべきである。意根の本来の姿を整えて修理してこそ、自分を変え、解脱でき、業種を清浄に変え、最後に仏になることができる。常に心の中で自分に問いかけてみよう。意識が滅びたら、私は何になるのか。実際に意根が何であれ、自分はそれである。

皇帝が太子を立てようとするとき、太子に家を興し国を守らせることを望む。一人の息子は体が健康で、もう一人の息子は体が病弱で、生死が定まっていない。皇帝はどちらの息子を太子に立てるだろうか?皇帝が頭が混乱しているときに限って、生死が定まっていない息子を太子に立て、彼に家を伝え国を守らせることを望む。学仏者も同じで、愚かな人だけがすべての希望を意識心に託し、意識が証果すればいい、意識が明心して如来蔵を知ればいいと考える。しかし意識が断滅したらまた凡夫になるではないか?

また一部の人は「意根は我見を断つ必要がなく、直接に我執を断つことができる」と言う。我見を断たずに我執を断つことができるというのも一種の発明創造だが、肝心なのはこの発明創造が通じるかどうかである。また「意根が明心して如来蔵を証得せずに、直接に識を智に転じ、直接に仏になれる」と言う。これはさらに一種の発明創造だが、肝心なのはこの発明創造には何の用途があるかである。もしこれらの発明創造がすべて通じるなら、学仏はあまりにも簡単で容易になり、近い将来、意識心で少しやればいい。三蔵十二部経を暗記すれば仏になれる。しかし事実はどうか。仏になるには三大無量劫を要してすべての無明を取り除き、無明が尽きるまで非常に容易ではない。

——生如法師の開示
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我見を先に断ってから如来蔵を参究するのが最も省力である

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もし意根に無明の煩悩がなければどうなるか

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