衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月07日    日曜日     第6 回の開示 合計34回の開示

もし意根に無明の煩悩がなければどうなるか

意根に嗔がなければとても良い。意識が一つ滅べば、嗔のない三果の人になり、死後生まれ変わる時は三果の人として生まれ変わる。我見を断つ必要もなく、初禅定を修める必要もなく、凡夫が意識を滅ぼせば直接に三果の人になれる。意根にどんな煩悩がなければとても良い。ただ死ねば聖人になり、後世にももう修行を多くする必要はなく、少し観行すれば証果でき、すぐに初禅定を修め、煩悩を断ち、また三果の人になる。意根に無明がなければなおさら良く、直接に仏になる。あなたや私や彼や彼女がまだここで修行しているのは全く余分なことだ。根本的に修行する必要はない。意根に無明がなければ、無明を破る必要もなく、無明を断ち尽くす必要もなく、本来の仏なのだから、まだ修行する必要があるだろうか?

意根に嗔も煩悩もなければ、私たちはただ眠ればいい。意識が断滅すれば、眠っている人は皆聖人になる。生まれたばかりの赤ん坊は意識も勝義根も全く新しく、意根に嗔も煩悩もなければ、生まれてくる赤ん坊は皆聖人になる。私たちはこんなに苦労して修行する必要があるだろうか?意根に嗔がなければ、赤ん坊が物を手に入れられない時、腹を立てて泣き叫ぶこともなく、怒って人を殴ることもなく、「ママが悪い」と言うこともなく、見知らぬ人が抱こうとしても赤ん坊は押しのけない。赤ん坊には不機嫌な時もなく、口を尖らせたり、気まぐれや機嫌を損ねたりすることもない。

——生如法師の開示
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