もし禅定がなければ、様々な観行の一つも合格できない。自分自身が一切の法が夢のようで幻のようだと思っていても、たとえ意識が一切の法が夢のようで幻のようだと証得しても、意根は絶対に証得することができず、言うこととすることは別であり、しかも意識も本当にこれらの道理を証得しているわけではなく、証拠も不足している。
禅宗の第三関から始まり、それ以降の夢のような観、鏡のような観などはすべて初禅定を備えていなければ、関を突破することができません。それ以前のすべての観行、私見を断つことを含めて、未到地定を備えていなければなりません。そうでなければ、どの関も突破することができません。もし誰かが自分が私見を断ったと思っていて、まだ未到地定がない場合、自分自身はこのことが信頼できるかどうかをよく考えるべきです。命の終わりの時は一大の生死の関であり、些かの曖昧さも許されません。
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