意識には俱生我執があるだろうか?俱生とは生まれながらにしてあることを意味する。意識が初めて現れた時、東西南北も弁えられず、何も知らない。もちろんいわゆる「私」も知らず、両親や兄弟姉妹も知らないので、我執はない。赤ん坊の意識が示すものは全て意根によって教えられ、薫習されたものなので、意根にこそ俱生我執があり、意根はまた生まれる必要がない。環境や両親は暫くの間、赤ん坊を薫習することはできない。意識は徐々に教えられてこそ、漸くすべての法、あらゆる法を理解できる。自分の意根に教えられるにせよ、他人に教えられるにせよ、環境に薫染されるにせよ、とにかく意識はすべての法を一つ一つ学ばなければならず、先天的に会うものはなく、自我の認知も含まれる。
意識は最初は全て意根によって教えられ、薫染され、生まれた時、意根によって調教されたもので、意根に支配されなければならず、何の原則や主張もない。意識が母胎の中で示すすべての表現は、全て意根に従順で、少しも自我主張はない。生まれた後の意識も、完全に意根の意志と習気に従順で、少しも自我主張はない。後に環境に薫染され、他人に教えられて初めて、いくつかの認知を持ち、いくつかの自我主張ができるようになる。
子供の天真爛漫さは、完全に自我の内心(意根)の表現にあり、偽りもなく、偽装もなく、意識の覆いもなく、意根の直情径行と素直な行為で、意識は意根を制御したり、意根を偽装したりしない。子供から直接意根の特性を見つけることができる。子供が生まれつき貪欲であれば、それは意根の貪であり、生まれつき怒りやすければ、それは意根の嗔であり、生まれつき愚痴であれば、それは意根の愚痴である。子供が生まれつき聡明であれば、それは意根の智慧であり、生まれつきある特技があれば、それは意根の才能である。生まれつきで、後天的に特に学ぶ必要のないものは全て意根のものである。
ある人はある方面における慧力が非常に良く、後天的に学ぶ必要がなく、生まれながらそうである。それは意根の慧で、前世から持ってきたもので、あの天才児童たちがそうである。意識が後天的に学んで得る智慧は、時間が少し長くかかり、それほど速くはない。もし非常に速く学べるなら、やはり意根の薫習を受けており、前世に触れたことがあり、業種と意根に関係がある。学仏も同じで、ある人は学仏が一日千里で、善根と慧根があり、前世の基礎があると言われ、意根が前世の薫習を今世に持ってきて、学仏が非常に速くなる。
私たちが本当に意根と意識を区別できない時、意識がない場合を考え、意識の作用が微弱で小さい場合を考え、意識が初めて現れたり、すぐに滅びようとする場合を考えなければならない。これらの場合は全て意根の特性の表現である。
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