菩薩の心性を持つ者は速やかに成就するが、これは多生累劫にわたる修行の結果である。修行をより迅速に進めるため、我々は皆大いなる心を発し、自利利他の菩薩行を修めるべきである。菩薩の心性とは無我であり、無我は菩提と相応するため速やかに菩提を証得できる。我ありは道を障げる根源である。もし個人の利益のみを念頭に修行し、仏教や衆生、他者への関心を持たなければ、福徳は積み難く智慧は成長せず、修行は極めて緩慢となる。福徳を修めるよう勧めても応じぬ者もいる。結果、長年修行に精力を注いでも正見は貧弱で正路に立てない。福徳を修めることは仏法を学ぶ出発点であり、仏法を証得する基盤である。しかし依然として福徳を修めることを「損」と誤解する者がいるが、真の大損は福徳を修めぬことにある。
布施による福徳の修養において、どの対象で修めるかも重要である。米を収穫するには水田に種を蒔かねばならず、菜園に稲の種を蒔いてはならない。大乗の法において福徳を修めて初めて大乗法を証得できる。真の仏法に種を蒔いてこそ大小乗の果実を得る。福徳専修を志すなら布施行――財布施・法布施・無畏布施――を実践すべきである。
布施は三宝への供養のみならず、衆生への三種の布施を含む。財布施は金品の施与、法布施は自ら仏法を未証得でも間接的に法を伝え、多くの衆生が大乗仏法を理解できるようにする。これにより福徳は速やかに蓄積され、正見が早く確立され見道も速まる。無畏布施は他者の苦悩を解決し憂いを除くこと。この三布施を一定レベルまで実践すれば、福徳は果を証し明心見性し凡夫位を脱するに足る量が蓄積される。
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