衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月09日    土曜日     第2 回の開示 合計389回の開示

意根を尊ぶことは実証を尊ぶこと

末法の世において、何故意根の体性・機能・作用を多く示し、意識との区別を強調する必要があるのか。末世の衆生は軽薄で善根が浅く、貪欲が強く福徳が薄く、戒律を守る意欲がなく、持戒も困難で禅定も修め難く、心が清浄でないためである。学仏者は概ね知識の習得に偏り、学んだ理論を意識の情解に過ぎないものを実証と錯覚し、推測や研究結果を実証と見做し、自ら誤り更に他者を誤らせ、大妄語の業を共に造り三途の火坑に堕する。意根の体性を理解すれば、実証の相貌と情解の差異を弁え、実証の枢要を知り、この種の誤りを避け大妄語の罪業を犯さずに済む。

仏陀在世の衆生は善根福徳が厚く煩悩が軽微で心が清浄、定力が強く、理論を学べば自ずから深細に観行し、実証が比較的容易であった。深甚なる禅定により学んだ法が意根の深層に浸透し、証果は真実の証悟であり、意識の偽証ではなかった。仏陀の智慧神通が無限で印可が正確無比であったため、弟子を誤導せず未証言証の過ちを生じさせず、弟子の道業を損なわなかった。

明清代以前の出家在家衆にも深甚な禅定を有する者が多く、特に唐宋期の学仏者は禅定を重んじた。禅定があれば観行が可能で、理論が正しければ実証が比較的容易であり、情解の現象が極めて少なく、証する場合は必ず実証であった。ただ経典理論の獲得が困難であった。当時の衆生は意根の機能作用を理解せずとも実証が可能であった。

現代の修学環境では多くの者が戒律を守れず禅定も修めず、知識習得に偏る。これでは実証不可能であり、実践も伴わず口頭禅に終始し、道理を巧みに説きながら心が道に相応せず貪瞋痴が依然として盛んである。禅定なき者は煩悩を降伏できず、まして断煩悩など論外である。故に仏教団体内部は世俗界より混乱し、名聞利養への執着に加え仏法上の個人的利益まで執着し、煩悩が世俗界を上回る状況にある。

「聖人」が氾濫し偽証が横行するこの欲望横流の時代、戒律と禅定の重要性を強調し、意根の実証を強調することで、未証言証の大妄語者が命終に三途に堕するのを防ぎ、他の学人を火坑に引き込む危害を阻止する必要がある。

——生如法師の開示
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