衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月11日    月曜日     第3 回の開示 合計392回の開示

生死流転の業縁は貪愛である

臨終時に貪りの念(家族眷属への執着、人世の生活への執愛、財産や情への執着)があれば、必ず鬼道に受生する。臨終の一念が瞋恚の念(如何なる対象への激しい怒り)であれば、地獄に受生する可能性が高い。

故に希望を全て臨終に託し「その時念仏を唱え心地清浄を保てる」と考えるのは極めて不確実である。誰が保証するのか。臨終時には如何なる状況が発生し、如何なる心念が生起するか予測不能である。平常時の心念さえ制御できぬ者が、四大分解で業障が現前する臨終に、三悪道へ向かう業縁に従って起心动念する確率はほぼ100%であり、三悪道を免れる保証はない。

三悪道を免れる保証があるのは、我見を断ち明心するか、『観無量寿経』の第三観(地観)を成就した場合のみである。念仏で往生時期を予知する方法さえ不確実で、その時念仏心が専一で誠意不足ならば、仏は迎接に来られない。

学仏者の90%以上は臨終時三悪道(特に鬼道)に受生する。なぜなら全ての者に貪欲が残存し、断じ尽くされていないからである。貪欲を断じ得るのは我見断後に初禅定を生じ、定中で貪瞋を断じた場合のみ。しかし初果・二果の聖者は貪欲が残存しても三縛結を断じているため、鬼道受生せず欲界天または人間界で続けて貪欲を断じる。

六道輪廻はこのように無情で情実を顧みない。真の修証なき者は命終と共に業障に従い、貪念に引かれて受生し、選択の余地がない。平常時の訓練不足、訓練未成就のためである。我見を断った者のみが訓練成就者と言える。

しかし偽の我見断ち・偽明心者は依然として訓練未成就であり、三縛結を断じ得ず、貪念に従って鬼道受生を免れない。

無数の学仏者は未だ自覚せず、日々飲食・衣服・住居を貪り、享楽・所謂「自在」・風光明媚・快適を好む。これらの好みは煩悩の結縛であり、自らを六道に縛り付ける心病であり、来世の業縁である。各人の一生で享受すべきものは既に享受したが、来世はどうするか。現在の享楽と来世の三悪道苦受、どちらが重要か。

更に高尚な修行法として「肉を食する時は肉と作意せず」と説く者があるが、済公和尚のような境地転換を遂げた者以外、何人が実行可能か。既に肉に興味なき者が、何故敢えて食する必要があるのか。畜生を一匹でも殺さぬ方が良くないか。臨終時に肉の主(畜生)が債権を請求して来た時、その債務を返済せずに済む能力があるだろうか。

——生如法師の開示
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