経を聞かず、経典を深く学ばなければ、どのように精進して修行すればよいかがわからない。経典を深く学び、正念で道理に従って思惟する。ただ経典を深く学ぶだけではなく、正念で思惟することがとても重要で、信根や精進根を絶えず成長させることができる。仏はこれによって無上菩提を証得できると言われている。特に仏がこの経典で説かれた諸法が夢幻のような法門は、定の中で深く観行し、夢のような観を証得し、さらに初地に入ることができる。
無上菩提を証得する果報は非常に殊勝である。まず世俗法における果報として、一切の豊かさと安楽を得ることができる。仏法を修学して道果を証得する人は、悪道に堕ちない。次に生まれる所で富貴栄華の果報を享受する。昔の禅師たちが大乗の果を証得した後、再び人間に生まれて国王や大臣になることができる。証得する果位が高ければ高いほど、天上や人間における地位も高くなる。これを世俗法の富楽という。
私たち仏教を学ぶ人も、多く福徳と智慧を修めるべきである。福徳を修めるとその報いによって世間法における富貴を得ることができる。仏は二足尊であるが、どの二足か?福徳と智慧の二つである。もし智慧だけで福徳がなければ、仏になれない。福徳がなければ、世間のすべての人からの礼拝、恭敬、供養を感得することもできない。だから私たちが経典を唱えるときは、福徳を修めると同時に智慧も修める。座禅をすることも福徳を修める。仏を拝むことも福徳を修める。なおさら財布施や法布施をして衆生を利楽することは、さらに福徳を修めることである。福徳と智慧の二足尊、両方とも円満に具えてこそ、無上士である。
仏法を精進して学ぶことによって、無上の菩提を証得し、世間の一切の渇愛を滅ぼすことができる。渇愛とは渇望、貪愛であり、三界の世間法に対する極度の渇望のことで、所有したいと渇望して貪愛し、手放せず、三界から出ることができず、三界の中で輪廻して苦しみ続ける。
この無上菩提は世間の一切の我慢を滅ぼすことができる。凡夫の衆生は皆深い我慢を持っている。我慢とは何か?まず衆生は自分が存在すると考え、五陰を自分と認める。色身が自分、感覚が自分、見聞覚知が自分、想陰が自分、身口意の行いが自分、六識の識別性と了別性が自分である。凡夫はこれを自分とし、そして深刻に自分を執着し、我見や我執心によって、我慢心を生じ、自分の五陰十八界は他の衆生の五陰十八界より優れていると考え、世俗法のある方面で他の衆生より優れていると思い、そのため内心で自分を高く掲げ、他の衆生をいじめる。
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