衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月13日    土曜日     第1 回の開示 合計55回の開示

意識の「知」と真心の「知」をどう区別するか

問:未到地定や初禅に修めれば明心見性できるとしたら、この時、意識心の「知」なのか真心の「知」なのかをどう区別しますか?明心とはどんな心を明らかにし、見性とはどんな性を見るのでしょうか?

答:未到地定や初禅のこの二つの定の中で明心見性できるとしたら、意識が知性を携えて、第八識を見つけたり知ったりし、第八識が五陰の中で動作する大まかな状況を理解します。だから初禅定や未到地定は意識心が入る定で、そして意識心が思惟観行すれば智慧が生じ、第八識の動作軌跡を発見することができます。これが明心です。明心は意識が明らかにする心で、明らかにするのは第八識です。見性は意識心が第八識の性用を見ることで、つまり仏性を見ることです。

明心する時の「知」と「明らかにする」は、必ず意識心の「知」と「明らかにする」です。「知」と「明らかにする」の対象は全て第八識です。しかし真心の第八識は悟りを開いて明心する道理を知らず、明らかにしません。真心は自分自身を探さず、自分自身を証明せず、自分自身を明らかにしません。

意識心は極めて優れた修行と生活のツールです。それは一切の法を了別し、一切の法を明らかにすることができます。意識心がなければ、衆生は何事も知らず、明らかにできません。仏教を学び修行する時、十分に意識心を利用しなければなりません。それを使って分析し、思惟し、判断し、推理し、求証し、最後に一切の法を理解し、一切の法を証得し、それを使って仏道を成就します。極めて深い定を修める必要がない時、意識の作用を弱めてはならず、さらに意識を滅ぼしてはなりません。なぜなら、意識というツールがなければ何もできず、思惟や観行もできず、参禅もできず、甚深な智慧も得られず、成仏は意識に期待するからです。

——生如法師の開示
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