五蘊の観行による我見の断ち(第二部)
第一章 五蘊における「我」とは何か
一、我見を断つとはどの「我」の見解を断つのか?
我見を断つとはどの「我」の知見を断つのか、この問題を明確にしなければ我見を断つことはできない。断つべき「我」の知見すら把握していなければ、我見を断つことは不可能である。目標が不明確であれば当然達成できない。我見を持つのは五蘊であり、具体的には五蘊中の七つの識心、主に第六識と第七識である。第六・第七識がどの法を「我」と見做しているかを見極め、第六・第七識にその法を否定させ、「我」として認識させない、あるいは「この法は我ではない」と確信させることこそが我見を断つことである。要するに、第六・第七識の我見を断除するのである。
第八識の我見を断つべきだと誤解する者もいるが、実際には第八識は我見を持たない。第八識はどの法も自己として認識せず、第八識自体をも自己と見做さない。仮に第八識に我見があったとしても、どうやって第八識の我見を断つのか?第六・第七識は第八識と意思疎通ができないため、その手段は存在しない。従って我見を断つ主体は五蘊中の第六・第七識であり、この二識に我見を断たせることで初めて五蘊中第六・第七識の生死から解脱できる。色蘊にも我見があると主張する者もいるが、色蘊は色法であって識心ではなく、思想観念を持たない。第六・第七識が色蘊を「我」と見做しているため、第六・第七識の色蘊を「我」とする我見を断つ必要がある。
二、「五蘊無我」とは何が無いのか?
「我」とは主宰性・自己決定性・恒常不変性・真実性を指すが、五蘊にはこうした特性が存在しない。故に五蘊は「我」ではなく、制御不能で主宰者なく、自立的でなく、恒常的でなく、真実でもない。五蘊とは破壊性・毀損性・壊滅性・空性を本質とする。これらの理を観行によって証得すれば、五蘊が「我」でないことを悟るのである。
ここに第八識如来蔵の関与は一切ない。声聞乗の修行者が第八識が不生不滅であること、五蘊の依り所であることを知るだけで十分に我見を断てる。外道たちが仏陀に遇い、数分の説法で四果の大阿羅漢を証得した例を見れば、第八識の理解に要する時間的余裕は全くなかった。彼らは第八識の定義も、五蘊と第八識の関係の観行も不可能であった。五蘊に第八識が無いこと、五蘊が第八識でないことを思惟観行する余地はなく、その結論に至る道筋もなかったが、実際に阿羅漢果を証得し、仏陀に先立って涅槃に入った。
仏陀が四念処経で弟子たちに観行による証果を教えた際、経典全体を通じて五蘊の依り所が第八識である旨の記述は存在しない。弟子たちの観行プロセスは第八識に全く触れず、五蘊と第八識を連関させることもなかった。それでも多くの弟子が五蘊の苦・空・無常・無我を悟り、初果から四果までの法眼浄を得た。従って「無我」の結論には五蘊に第八識が無いという意味は含まれず、「五蘊無我」とは主体・主宰者・恒常性の不在を指すのである。
三、「五蘊無我」における「我」とは何を指すのか?
五蘊が「我」であり、五蘊が「我」でないという時、この「我」とは何を指すのか?凡夫は五蘊を「我」と見做し、聖賢は五蘊を「我」でないと見做す。この「我」とは一体何を指すのか?
ある者はこの「我」を第八識如来蔵と解釈するが、この説は正しいか?もし正しいとするならば、凡夫は「我」を持つが故に五蘊を第八識如来蔵と認識していることになる。果たして凡夫にそのような認知や思想観念が存在するか?決してない。もし存在するならば、全ての凡夫は三賢位を飛び越え、聖位の地上菩薩となっているはずである。地上菩薩のみが五蘊十八界の全側面が如来蔵性であり、実質的に全て如来蔵であることを観察でき、一分乃至は多分の一真法界性を証得する能力を持つ。法界全体が一真法界であることを証得すれば、即ち仏となる。
故に凡夫が五蘊こそ第八識如来蔵であるという智慧の認知を持つことは不可能である。実際、凡夫衆生はそのような思想観念を持たず、仏法を学ぶ凡夫衆生でさえ、大多数が第八識如来蔵の存在を知らず、知る者もその真実性を認めない。ましてや証得していない者が五蘊を第八識如来蔵と見做すことはない。特に三悪道の衆生は五蘊と第八識を結びつけることができず、しかも三悪道衆生は全て我見を持ち、自らの五陰身を「我」及び「我の所有物」として守護する。畜生道の衆生は極めて愚痴で、頭の中に何の概念もなく、ただ五陰身を「我」と知り、「我」という概念すら持たないが、意根が言語文字を用いずに五陰身という「我」を知覚するため、自我の守護行動を妨げられない。
この状況において、凡夫衆生が四聖諦の法を学び、五蘊を観行して「五蘊こそ第八識如来蔵である」という絶対真理を否定し、誤った結論「五蘊は第八識如来蔵でない」を導き出す必要は全くない。この結論は地上菩薩の唯識甚深大智慧を直接否定し、唯識の正理に背き、華厳経が説く一真法界の正理にも反する。故に「五蘊は第八識如来蔵でない」という結論を証得したと主張する者は、実際には証果しておらず、如実の観行も行わず、真実の修行過程を経ていない。如実に修行した者なら、決してそのような結論に至らない。これは我見を断つ観行における邪道であり、我見を断つ正しい果を得られず、法眼浄も解脱も得られない。
証果後の者は、五蘊が苦であり空であり無常であり、恒常不変でなく真実でなく自立的でなく主宰者なきものと認識する。次第にこのような五蘊を放棄し、執着を減らすことで煩悩が徐々に消滅し、遂に解脱する。真に我見を断った後、これらの説明は全て無意味となる。自らの直接体験が最も真実で信頼できるものであり、言葉を用いずとも心で真相を了知するのである。
四、「五蘊は我」と「五蘊無我」における「我」は何を指すのか
我見を断つ観行は極めて重要である。五蘊を「我」と見做す「我」を明確に把握することが肝要である。五蘊中に我見を持つ「我」さえ把握できないなら、どうして我見を断てようか?我見を持つ者は意識と意根であり、第八識は絶対に我見を持たない。従って我見を断つとは意識と意根の我見を断除し、意識と意根に五蘊が「我」でも「我所」でもないことを確認させることである。「私のものではない」という時の「私」も当然意識と意根を指し、第八識を指さない。
五蘊と第六・第七識の「我」は毀損性・壊滅性を持ち、生滅変化する。故に五蘊と第六・第七識は「我」ではなく無我である。第八識は毀損せず壊滅せず常住不滅であるが、方便的に「我」と説かれるものの我性を持たず、第七識のような主宰性を有しない。従って第八識もまた無我である。五蘊無我を観行するとは、五蘊と第六・第七識の毀損性・壊滅性・生滅変異性を観察し、確認後に第六・第七識が五蘊を「我」と見做す我見及び我所見を断除することである。もし「無我」の「我」を第八識と見做すなら概念のすり替えとなり、結局我見を断ち得ない。
意根は無始劫以来、五蘊を真実の「我」として執着し続けてきた。意識は意根の影響を受け、同様に五蘊を真実の「我」及び「我所」と見做す。なぜこの「我」が第八識ではなく意識・意根を指すのか?無始劫以来、衆生は第八識という理体の存在を知らず、五蘊を第八識として扱うことが不可能であったためである。心の中に「五蘊こそ第八識である」という我見が存在しない以上、我見を断つとは五蘊が第八識でないことを観行する行為ではない。もし衆生が五蘊を第八識と見做せれば、五蘊を空じ、執着せず、我見・我執が消滅し六道輪廻も存在しなくなる。これは諸仏菩薩の願うところである。
もしこれが実現するなら、諸仏が娑婆世界に来て法を説き迷いを救う必要もない。故に五蘊無我を観行した結果、五蘊が第八識でないことや第六・第七識が第八識でないことを証得するのではなく、五蘊全体が壊滅的で生滅変異するものであり、「我」と呼べる存在が無いことを悟るのである。これにより五蘊への執着が消え、我執が徐々に溶解するのである。
五、「人無我」の真実義
人無我とは小乗聖賢と大乗聖賢の見地である。彼らは異なる程度・角度において五陰が「我」でないことを証得し、五陰無我を完全に証得するのは四果阿羅漢・辟支仏及び八地以上の大菩薩である。人無我に対し人有我とは、五陰身という人間に我性が存在し「我」及び「我の所有物」であるとする凡夫衆生の不正知見であり、この邪見が六道生死輪廻の苦を招く。
衆生が五陰身を五陰身と見做し、五陰身を実有の「我」及び「我の所有物」と認識するなら、これが無明の生死邪見である。もし衆生が五陰身を五陰身と見做さず、第八識から生じた第八識の機能作用であり本質的に第八識であると認識するなら、この衆生は五陰を「我」とする我見を破り、五陰が「我」でないこと、五陰に真実の属性がなく全て第八識の属性であることを証得する。これが大乗菩薩の見地であり、六道輪廻の生死業が徐々に消滅し三界輪廻から解脱するが、菩薩たちは決して三界を離れない。
我見を断った菩薩は人無我を証得し、人間を人間と見做さず、色陰を色陰と見做さず、受陰を受陰と見做さず、想陰を想陰と見做さず、行陰を行陰と見做さず、六根を六根と見做さず、六塵を六塵と見做さず、六識を六識と見做さない。全てを第八識の属性として、第八識の機能作用と見做す。五陰十八界こそが第八識である以上、五陰非我とは五陰が第八識でないことを指すのではない。
故に人無我の真実義とは、人間が第八識でないことを指すのではなく、人間に人間の属性が存在せず、人間が「人間という我」でないこと、人間の属性が成立せず、人間の機能性が真実でなく、人間の機能性が無常・生滅・変異する第八識の付与物であることを指す。こうして我見を断った後は、五陰身を「我」や「我の所有物」と認識せず、心に所謂「我」が存在しなくなる。衆生は五陰を「我」と見做すが故に我執が生じ生死輪廻の苦を受ける。もし衆生が五陰を第八識と見做せば無我を証得し、心に「我」が存在しなくなる。心に「我」が消えた後、徐々に我への執着が減じ、遂に我執が断尽する。執着が無ければ生死も無く、輪廻の苦から離脱するのである。
六、五蘊非第八識は小乗観行の結論ではない
衆生が無始劫以来、五蘊身中に常住する不生不滅の第八識の存在を知らなかった以上、衆生に「五蘊こそ第八識である」という我見は存在しない。五蘊を観行して我見を断つ際、五蘊と第八識を対比させ「五蘊は無常であるが第八識は常住」「五蘊は生滅するが第八識は不生不滅」と説き、五蘊が第八識でないと推論し「五蘊を第八識の我とする我見」を断除する必要は全くない。このような対比と推論は前提が存在しなければ結論も成立しない。
仮に前提があったとしても、衆生が五蘊を第八識と見做すことは我見ではなく、寧ろ我見のない無我の認知である。大乗の参禅によって第八識を証得した菩薩は、五蘊が第八識から生じた第八識の一部であり、正に第八識そのものであることを知る。初地に入った菩薩は漸次に一切法が真如第八識であることを観察し、五蘊こそが第八識であり全体が即真如第八識、一真法界中の法であると悟る。もし衆生が無始劫以来「五蘊を第八識の我」とする我見を持っていたなら、衆生は無始劫以来ずっと地上菩薩であり唯識種智を具え、六道生死輪廻など存在し得ない。
さらに、仏が阿含経を説く際、最初に弟子たちに「五蘊身中に常住法が存在し、不生不滅であり衆生の五蘊の依り所である」と告げた。弟子たちはこの教えを信受し、常住の第八識が不滅であること、五蘊が生滅無常の法であり常住の第八識でないことを理解した。故に禅定による観行によって五蘊の無常・苦・空・無我を思惟し、五蘊と第六・第七識が壊滅する法であり「我」も「我所」も存在しないことを確認する必要があった。従って観行による我見断除の結論は「五蘊が第八識の我でないこと」ではなく、「五蘊が無常・壊滅・苦であり(意根の)『我』でも(意根の)『我所』でもないこと」である。
七、五陰はなぜ無我かつ無我所なのか
五陰十八界は生滅を繰り返す幻化の仮相であり、自らに主宰性を持たない故に「我」ではない。例えば木材・土・水が一定の法則で混合され家屋を形成する時、この家屋は生滅幻化の仮相であり自立的でない。崩壊すれば直ちに散滅し、自立的な実有の法として執着される対象ではない。
同様に、所謂「我」である五陰も七大種子の和合によって構成され、生滅不実の法である。自立的でなく自我主宰性を持たず、「我」とも「我所」とも見做せない。故に五陰は「我」でも「我所」でもなく、貪愛し執着する必要はない。部品を組み立てた法を依存すべき「我」と見做してはならない。では和合組成の法に依存しなくなった後どうなるか?五陰十八界を執取しなくなれば、尚何が残るのか?もし心にこの疑問が生じ「尚何かある」と考えるなら、我見は未だ断尽せず執着と求める心が残り、生死と苦が存在し続ける。
我見を断つ際の「我」を明確に把握できないなら、真の我見断除は不可能である。もし「五陰は第八識でなく、第八識と異ならない」という結論を導くなら、我見は断たれておらず、五陰十八界に対する如理作意の観行も行われていない。心に五陰十八界という「我」が残存し、五陰十八界の「我」を廃棄せず、単に意識が「五陰十八界は第八識でない」と認識しただけである。「空」の意味は極めて重要で、観行を究めれば五陰十八界が空であることを了知する。空とは何か?究極的に言えば、空とは無我である。もし空でないものが存在すれば「我」が生じ、誰が空の法を(意根の)「我」と見做せようか?五陰の空を観行し得ない者のみがそうするのである。
八、身体を「我」とする「我」は誰を指すのか
身は「我」でも「我所」でもない。この身体に「我」が宿り、身体が消滅すれば新たな身体を探して宿る。この「我」とは誰を指すのか?身体を「我」及び「我所」と見做す者が「我」である。まず如来蔵は決して身体を「我」や「我所」と見做さない。如来蔵は身体を利用して何かを為す意志もなく、世俗法の運行において無心である。故にこの「我」は如来蔵を指さない。
無始劫以来、身体を「我」としてきたのは第七識である意根である。無始劫に亘り不断に身体を執着してきた主体は意根である。故にこの「我」は主に第七識を指す。五蘊中の五識心所は極めて粗く、殆ど「我」の観念を持たない。意識は「我」の思想観念を持つが、胎児に宿る際には作用せず、身体への宿りも連続的でなく、身体を主宰できず責任を負わない。従ってこの「我」は主に意根を指す。執着と利用への志向は意根の最たる関心事であり、受胎して色身を得ることは意根の最大の執着である。五蘊の機能作用は意根が最も把捉しようとするものであり、意根の我見は根深く頑固である。一旦意根が色身五蘊を「我」や「我所」でないと認めれば、色身五蘊への執着が次第に断尽し、五蘊世間の一切の苦受から解脱する。
漢語の語彙が貧困なため、仏法と世俗の用語が区別できず、多くの法義が正確に表現されず誤解を招く。例えば「真」という語は世俗法と仏法で共用される。世俗法における「真」の意味と仏法における「真」の意味は常人には区別不能で混同され易く、大乗如来蔵法を学んだ者は「真」と聞けば直ちに如来蔵の真心や真実性を連想する。世俗法でも「真心」「真実」という語彙が用いられるが、如来蔵とは無関係である。例えば「本気でそうしたいのか」「真の考えは何か」「これは本当か」といった表現は全て如来蔵と無縁である。しかし如来蔵法を学ぶ者は全てを如来蔵に帰着させようとする。如来蔵に頭部が無いのに、どうして帰着できようか?
世俗法の「我」と仏法の「我」は意味が大きく異なる。如来蔵を学んだ者は混乱し「我」の字を見れば即座に如来蔵を指すと錯覚する。我見を断つとは如来蔵見を断つことか?「五蘊は我」とは五蘊が如来蔵であるという意味か?「五蘊非我」は必ず五蘊が如来蔵でないことを指すのか?
九、我見を断つ観行の内容と結果
我見を断つ際の「我」とは、意根の俱生我見と意識の分別我見を指し、如来蔵の我見を断除するのではない。如来蔵は我見を持たず、断除の対象ではない。意識と意根に五蘊十八界の法が苦・空・無常であることを観行させ、意根と意識に五蘊十八界が「我」及び「我所」でないことを確認させる必要がある。如来蔵に五蘊十八界が「我」でないことを確認させるのではない。無我とは如来蔵の「我」の存在を否定するのではなく、五蘊十八界の真実存在を否定するのである。
五蘊十八界が世俗界において不変の真実の法でないが故に、意識と意根に五蘊十八界が無我であることを確認させ、五蘊十八界を「我」や「我所」と見做すことを止めさせる。観行の結果は意識と意根に如来蔵が無我であること、或いは如来蔵の「我」の存在を確認させることではなく、如来蔵自身に無我を確認させることでもない。観行前には如来蔵の「我」の存在を認めてもよいが、観行結果を如来蔵に帰着させてはならない。何故なら観行対象は五蘊十八界であって如来蔵ではなく、観行内容が混乱すれば結果も混乱し、如実に我見を断つことが不可能になるためである。
十、色受想行識の真実相とは何か?
色受想行識の真実相は無常・変易・不安定・空・苦であり、非我・不異我・不相在である。無我である以上、「私は優れている」「私は劣っている」「私は他人に負けない」などと言えるのか?「我」でない二つ以上の法、空なる二つ以上の法、苦なる二つ以上の法、不実なる二つ以上の法を、どう比較できるのか?どちらが優れ劣るか、あるいは平等か?空で不実な法をどう比較するのか?兎の角の長短をどう比べるのか?亀の毛の美醜をどう評価するのか?「私があなたより強い」「あなたが私より弱い」とどう言えるのか?「私とあなたは同じくらい健康で裕福だ」とどう断定するのか?世間の無明に惑う者は既に習慣化した倒錯に気付かず、自らの言説が無意味な笑い話であることを知らない。言語も音声も全て虚妄である。
二人が罵り合う時、実際に誰が罵られているのか?色陰か受陰か想陰か行陰か識陰か?罵りの音声はどこに落ちるのか?罵られた者が不快に感じる時、何が不快なのか?どの法が不快を感じるのか?「不快」とは何か?「快」と「不快」という法が存在するのか?罵る者が「溜飲が下がる」と感じる時、何が解消されるのか?「溜飲が下がる」という法が存在するのか?
深甚な禅定の中でこれらの法を思惟観行すると、時至れば内心がこれらの法を空じ、身心が脱落する。これも一種の感覚であり不実ではあるが、解脱そのものである。禅定が無ければ、これらの法を理解しても書籍を何冊書こうが空論に終わり、実質的益は得られない。
十一、五蘊虚妄の意味
虚妄とは何か?虚妄とは偽りで不実な意味であり、空の意味でもある。事実や道理が存在しないことを指す。例えば人々が「某某が国王に即位した」と噂するが、実際にはその事実が無く、某某は国王になっていないとする。これは虚偽の伝説であり、某某の即位は虚偽・虚妄・空・不実である。衆生がこれが真実でないと知れば、噂を止め気に掛けなくなり、心が解放され空となる。
同様に、衆生は無始劫以来五蘊を真実の実体あるものと見做し、「我」や「我所」としてきた。観行によって最終的に五蘊が真実でなく虚妄・空・無我・非我所であることを確認すれば、五蘊を自己と見做さなくなり、心が空じて解放され解脱する。次第に執着を離れ、五蘊という仮我・空我のために業を造ることを止め、苦が消滅する。
しかし仮我たる虚妄の「我」は世俗相において存在する。ただ実体が無く本質的に空である。法眼浄を証得した者は今後もこの虚妄の五蘊を用いて修行と生活を続けるが、内心の思想観念が変化し煩悩が軽微乃至断尽する。六道輪廻の業種が消滅し、生死の苦から脱する能力を得る。これが小乗の定慧等持三昧の功徳である。
十二、我性の相貌
世界のどの地域の衆生が最も我見が強く我執が深いか?自我を強調する衆生ほど我見が強く我執が大きい。仏法はインドに起源し、後に中国震旦に伝わり、西天インドの仏法は次第に衰退したが、中国震旦の仏法は益々興隆した。達磨大師は西天で震旦に大乗の気象を見て、命がけでインドから中国に渡り法を伝え迷情を救い、大乗仏法が広まり人材が湧出した。禅宗六祖の出現と西天二十八祖の住世により、大乗仏法は泰山の如く安定した。
仏法がなぜ欧米諸国ではなく中国震旦に伝わったのか?文化基盤と人文素養の差異による。中国には儒家・道家などの文化基盤と中庸の道があり、人間性の根本を顕す。人間性を具えて初めて菩薩性・仏性が育まれる。現在の世界的肺炎禍を見よ。深刻な感染症下で「自由」と「人権」を叫び自己の快楽のみを求め他者の生命を顧みない者たち、これこそ我見我執の極致である。彼らの求める「自由」とは何を意味するか?「人権」主張の本質は何か?全て「我」であり我見我執である。
仮に他者を害さない「自由」であっても、それは依然として我性の表れである。「人権」も自我の権利を誇示し我を顕在化させる。独立・自主・平等・自由・権利・地位の要求は全て根深い「我」から発し、自己存在感の強調と我の解放を求める。これ程深刻な我性では大乗仏法が縁起せず、衆生が救われる因縁は熟さない。
同様に個人の我性が強く貪瞋嫉妬に満ち自我主張が激しければ、救済の因縁も熟さない。仮に仏法に遇っても今生で我見を断ち解脱することはない。仏法を学ぶ者は常に警戒心を保ち、自らの心行を観察せよ。自我意識が芽生えたら直ちに仏法理論で自らを導き、我の氾濫を防がねばならない。我性の表現形式・様相・特徴・発生環境を詳細に理解し、機を捉えて我を観照・整理・説得・教育・勧告・降伏させ、遂に断除する時、貴方は頂天立地の好漢となり、世の頂点に立ち人中之雄となる。これほど痛快なことはない!
十三、自我を発見できて初めて我見を断てる
我見を断つには、まず「我」と称されるものが何を指すかを知り、自らの機能属性と照合し、あらゆる身心活動に現れる「我」を特定できねばならない。一瞬一瞬の身心活動において、各法の中に現れる「我」を識別する。これ程多くの「我」を発見することは極めて困難であり、その智慧と観察力は並大抵ではない。常に賊を捕らえることができれば、今後盗難に遭わず家宝を失わないと予見でき、賊が処罰されようとされまいと、捕縛時点で成功の半分乃至大半を占める。
十四、なぜ異分子排除は凡夫の特性なのか?
異分子を排除する者は煩悩満ちる凡夫である。このような者は心に「我」と「他」、四相と事理を持ち、心が全く空じておらず我性に支配されているため修行に適さない。不合理な手段を用いて他者を蹴落とそうとする者は、特に煩悩深重な凡夫であり我見を断ち証果を得られない。
異分子排除は不適切な身口意の行いである。我見を断った者は既に無我に相応し、粗悪な業行を造作しない。故に証果の有無は七識の身口意行から判断すべきで、具体的な行動が最も重要である。第八識の心行から七識の証果を推測したり、言説のみで判断してはならない。行動こそが証量と修養を表し、虚言で人を欺く例は数知れない。身行の偽装も可能だが持続不可能である。
凡夫性は欲望にも表れる。仏法を学ぶ程に証果・明心への欲望が増大し、手段を選ばず果を得ようとする者さえいる。名声を得て権益を貪る欲望は我執の極致であり、どうして我見を断つ希望があろうか?仏法を世俗的利益の道具とする者は利欲に目が眩み、輪廻から脱せない。要するに衆生の凡夫性は枚挙に暇がなく、覚醒なき故の輪廻は当然の帰結である。哀れむべき者には必ず憎むべき点がある。
十五、如何なる者が我あり我なきかを如何に判断するか?
ある者に我があるか無いかを判断する際、単に会話中の「私」という語の有無で判断してはならない。仏が説法する時も「我」の字を用いるためである。「我」の字を避ければ思想表現の主体が失われ、自らの観念を明確に伝えられなくなる。仏は「我は如何」と語りつつも心中に我を持たない。逆に「我」の字を使わなくとも、文意全体に我執が滲む者もいる。その者の言語表現における「我」が客観的名詞概念か、それとも実体的な自我感情(執着・執念・過保護・傲慢・自負・劣等感等)を伴うかを観察分析せねばならない。
義に依り語に依らず。各人の言語の真意と指向性を吟味し、心中に我が存在するか、その濃度を判断する。我見を断ったか否かは表面的言説でなく、行動と言葉の一致度から判断すべきである。彼が示すものは真実とは限らず、語調と言葉の奥行きを精査せよ。これは偽装可能だが永続せず、必ず破綻が生じる。
十六、我見我執の種々相
ある者がひたすら「自分らしく」振る舞い、常に他人と異なり独立独行し、如何なる人為的指示にも従わず、如何なる事柄にも順応しない場合、この者は我見を断った無我の者か、それとも我執の極めて重い者か?心中に我ある者は自己の感覚・特権・属性・独自性に固執し、大衆との融合を拒み自我を隠蔽せず、堅固に我を執着して放棄しない。如何なる要求にも従順でなく、管理や指示に服さず、自律もできない者は我見甚だ重い。仮に自律できても依然として我見深い。
我執を断尽した大阿羅漢大目犍連は証果後、内心に自我の存在感が全くなく、衆生の心に随順する。衆生が望む通りに振る舞い、如何なる理不尽な要求にも怨言なく従う。我見を断った者は無我の存在であり、人・衆生・寿者相を離れる。一方「自分らしく」振る舞おうとする者はこれと正反対の道を歩み、我見我執を増長させ生死流転を招く。
自我存在感を強く主張し、衆生の些細な意志にも従わぬ者は強烈な自我主義者である。決して屈服せず妥協しない者は我性極めて強く、全てを己に劣ると見做し辛辣な言辞を弄する者は我執甚だ重く、断見が困難である。常に「己は正しく他は誤り」と主張し譲歩を知らぬ不寛容な者も我見我執深く、菩薩の随順心を欠く。
自己の快適さのみを追求し、周囲や世界を顧みず如何なる拘束も受けない者は我見我執極めて重く、今生での断見は極めて困難である。
各人は常に自心を内省せねばならない。全ての心念を観照し、道に背く念を発見すれば速やかに転換・消滅させねばならない。これが真の修行である。真の菩薩は世俗に流されず、また世俗に背かぬ。この微妙な均衡は菩薩の修養と智慧巧方便による。通常の菩薩はこれ程の処世智を持たず、世俗との関わりに障礙を生じる。
十七、我見断尽の境界
如来蔵を真実の「我」と見做せば、我見は未だ断尽せず、依然として一種の我見である。法界には七識の「我」が存在せず、我が無ければ如来蔵を真我とすることは不可能である。根本の七識自体性が無ければ、如何なる我性も存在しない。「如来蔵は真我である」という知見を確立すれば、同時に七識の「我」を確立することになる。七識の「我」が存在して初めて如来蔵を真我と見做すのであり、七識が無ければ如何なる法も「我」と見做さない。故に法を見ることは即ち妄見であり、妄見が無くなった時、必ず仏となる。禅宗第三関を修める際、心に如来蔵の「我」を執着すれば第三関を突破できず、有余涅槃を証得できず生死を離れられない。
観世音菩薩の耳根円通法門は、修め究めれば捨て得るものは全て捨て、空じ得るものは全て空じる。捨てることさえ捨て、空じることさえ空じる。能捨・所捨、能空・所空、及び空空ことごとく空じ尽くし、更に空ずべきもの無く、只如来蔵のみが孤零零と残る。捨てられず、空じ得ず、捨てる者も空ずる者も無くなった時、究竟の境地に至り三十二応身を成就し、大慈大悲観世音菩薩と称されるのである。
十八、果位と証果への執着も我見の現れ
現在、悟りを開き証果したと称する者が数百数千と存在し、聖人たちが街を埋め尽くす勢いである。しかしこれ程多くの「聖人」の心性と煩悩は、悟り前後で何ら変化がなく、思想境涯・三昧境涯も見られず、身口意は従前と同様か却って汚染が強まり、慢心も増大している。どうしてこれらが真の証果・明心であると証明できようか?全く証明不能である。三十七道品を修めず戒定慧を全く具足せず、多くの者は単なる意識的理解の域に留まり、知識の習得レベルに過ぎない。理論すら不十分で意識境涯にも到達せず、まして意根の領域など及ばない。
故に世間には大妄語が蔓延している。何故大妄語を吐くのか?我見が重く自我に執着する者こそ大妄語を弄する。我見が軽微な者は極めて慎重かつ実証的で、自らの修行状態が真に証であるかを検証する。我見の重い者が証果したと錯覚し、それを指摘されれば直ちに激昂する。何故か?証果への執着、聖人たる自我への執着、自己の非凡性・果位・地位への固執が激しいためである。
この執着は彼の心中に依然として「我」が存在し、却って増大していることを示す。もし「意識の証果は真の証果でなく、推論や憶測は証果に非ず、意根の証得が必須だ」と指摘すれば、自己の地位と名誉を守る為に反論・攻撃を繰り返し、事実を顧みず省察しない。彼の心中に「証果した非凡な高貴な我」という実体視された存在が巣食い、これを必死に防衛する。これは我見が全く断たれていない証左である。真に我見を断ち智慧が漸増すれば、各人の心行に我見の有無・程度・深刻性を判別できるようになる。
十九、能所双亡とは何か?
能所双亡とは、能は七識心を指し、所は七識心が認知する法を指す。亡は滅の意味である。七識心が七識を真実の主宰性ある「我」と見做さなくなり、七識の認知する法を七識の所有物と認めず、能所の虚妄不実性を了知する状態が能所双亡である。
心空を証得するとは、身体が空じ六塵境界が消滅することではなく、身体が空・五蘊が空・六塵境界が空であることを正しく認知し、心的観念が転換され五蘊色身を真実の「我」と見做さなくなることを指す。身体が空無となるのは禅定境涯であり、六塵境界が消えるのも禅定境涯である。禅定境涯は生滅変異する法であり、禅定が消滅すれば身体と境界は再び現前する。