五蘊の観行による我見の断ち(第二部)
第四章 大乗と小乗の区別
一、如何にして空を認識するか
仏法修行の過程において、長期にわたる広範な観察を通じて、人事物理に対する認識の智慧が向上すると、思想・観念が変化する。観念が変われば態度が変わり、態度が変われば行動が変わり、行動が変われば業が変わり、業が変われば果報が変わり、果報が変われば解脱する。智慧があれば万法の空と幻を十分に効果的に認識し、もはや万法に執着せず、世間が空じ寂静すれば、心は安らぎ解脱する。空を認識した時、世の中の全てが取るに足らないものに感じられ、世俗法はその場しのぎとなり、世俗的利益の有無は重要ではなく、重要なのは心が空じ、身口意が変化し、貪瞋痴の煩悩業を造らなくなり、果報が善となる。もしまだ空を認識できないなら、心に我あり、我あれば煩悩と煩悩業が存在する。
空は三つの側面から次第に深く認識される。最も深いのは如来蔵の角度から認識する方法であるが、如来蔵を証得しなければ空を認識できず、やや深いのは十二因縁と四聖諦の角度から認識する方法、最も浅いのは世間法の角度から空を認識する方法である。これは経験と聡明な智慧の蓄積による世間智者の智慧であり、もちろん究竟的ではないが、無智で実有に執着する者よりはましである。最も徹底的で究竟的な認識は、如来蔵における七大種子の機能作用の角度から一切法を認識することで、こうして空は絶境に至り、空すらも空じ、空空もまた空じ、一切の心と境を絶ち、一切の法と境が余剰となる。この境地に至れば、もはや語るべきことはなく、語られたものは全て当てはまらず、意会もなければ言伝もない。
二、大乗と小乗が証得する空の相違
小乗が証得する五蘊の空と大乗が証得する五蘊の空には本質的な差異がある。正にこの差異があるが故に、大乗と小乗の修行者の心量・願力・道行に相違が生じ、小乗修行者は解脱後に無余涅槃に入らねばならないのに対し、大乗修行者は解脱後も永遠に無余涅槃に入らない。小乗修行者が証得する五蘊の空は外見的現象において証得されたもので、五蘊現象の生住異滅を観察して得た空であり、この種の空は究竟しておらず未徹底で偏頗が残るため、智慧も浅く行願も浅い。大乗修行者が証得する五蘊の空は五蘊の本質から証得されたもので、五蘊の本質が如来蔵より出生することを見たが故に、もはや五蘊に執着せず、五蘊を滅ぼす方法を求めないため、行願が広大となる。
例えば一部の人々は、人が生まれては死ぬのを見て、人間が無常で滅する存在であり把握し得ないものだと悟り、故に空であると知る。一方、他の人々はそれだけでなく、この人物が実は魔術師が幻化した存在であり、生死が魔術師に掌握されていること、たとえ死んでも魔術師が再び幻化できること、生死共に仮相であることを見る。後者の人々はこの幻化人に執取せず、また敢えて回避し捨て去ろうともしない。
実際のところ小乗修行者が考える空は「有」と対立する空であり、これは依然として別種の「有」である。正に小乗修行者の空が表面的現象に留まり、本質的な空に至らないため、彼らは全てを滅却しようとし回避しようとし、五蘊世間を恐れる。これこそが別種の「有」である。真に空じ尽くせば、何を回避し何を恐れる必要があろうか。もはや滅却を図る必要もなくなる。例えて言えば天女が花を散らす時、小乗修行者は花が身に付着するのを恐れて花を避け、衣に付いた花を払い落とし「花が身に付着するのは不如法だ」と考える。これに対し大乗修行者は花を気にせず、全身に花が付着しても意に介さないため、逆に花は身に付着しない。
何故大乗菩薩はこのような心態なのか。菩薩は花が幻化の仮相であり実質的作用を持たず、色身も同様に幻化身であることを知っているからである。幻化身と幻化花に何の障礙があり、何が不如法であろうか。これらの法は自ら実証して体得すべきものであり、未証得のままでは理解が深くとも究竟せず、心行において未だ空じ切れない。小乗修行者は「確かに空が存在する」と考えるが、大乗修行者は「空さえも空じ、空空もまた空じ、空じ尽くして初めて究竟する」と考えるのである。
三、大乗と小乗における空の相違
万法皆空の「空」には二つの側面がある。一方は小乗法の観点から説かれる五蘊世間が皆空であるという意味で、その次元は比較的浅く範囲も狭く、一切の法を含まない。他方は大乗法の観点から説かれる五蘊世間の皆空と一切法空の意味であり、次元がより深く根本的な空、実質的な空、究竟的な意味における空に至り、遂には完全に徹底した空に到達し、範囲は一切の法を包括して一片の漏れもない。小乗法が説く五蘊世間の苦・空・無常・無我における「空」は、生滅変異する無常の法を指す。生あるものは必ず変異し滅するため常住せず久長ならず、生滅を有する法は無我性の法である。これが小乗の空である。
大乗法の空は如来蔵を証得した後、現量において五蘊世間と一切の法が如来蔵より変現されたものであることを観察し、故に全てが空であると知る。これらの法もまた生滅変異して真実ではない。明らかに大乗の空はより根本的で究竟的かつ透徹しており、空の理を明らかにしている。地上菩薩の唯識種智の立場から言えば、眼前に見える物は全て心が変現したものであり、変生された法は幻化された不真実な存在である。魔術師が無から花束を変じる如く、この花束は現象的には存在するが実質は空であり存在せず、存在は仮相に過ぎない。大乗法は世間一切の法における空・仮・中を説くが、小乗の空は比較的浅く仮も中もなく、ただ世間法の無常変異不住を観察するのみで、幻化された仮相を把握せず法の実質を捉えず、観察の智慧が浅い。
大乗・小乗の修行は共に七識五陰の無明を破り、七識五陰に空の智慧を具えさせるものである。多くの法を薫習し理論が豊富で数多の弁論論文を書けても、心が空じ切れず学んだ理論を実有的な法と見做すなら、これは学識の蓄積であって修行ではなく、修行に逆行するものである。
特に大乗法を学ぶ場合、深遠で興味深い理論に耽溺し知識を吸収し続け、孜々として探究・研究・整理・帰納し、条理を分けて分析する中で、如来蔵が幻化した一切の法を有法として執取し、有を執って空じないなら、これらは全て修行ではない。修行とは理論に基づき空を証得して無明を破り、心行と心性を改めることである。心性は心が空じて初めて変化し、心性が変化すれば心行もこれに伴い変化し、果報が悪報から善報へ転じ得る。全ての学人は仏法を学ぶ目的が心空を達成することにあると銘記すべきである。心空にして及第に帰すのであり、修行は学問を修めることでも知識の蓄積・理論の研究でもない。故に理を執って事を廃してはならず、理と事を統一し円融無碍にすべきである。
四、大乗と小乗における証道の相違
我見を断ずることは五蘊無我の理を観行することであり、第八識に関与しない。第八識を証得するには大乗般若を修学し、意識に相当の般若正知見を具えた後、禅定において参禅し第八識を参究しなければ大乗の証道に至らない。大乗と小乗の用功方法と内容は異なり、証道後の心空の次元と内実も異なる。小乗が我見を断ずるのは五蘊空無我を証得することで、単独の「無」としての空である。これに対し大乗の証道後の空は小乗の「無」の空を含むのみならず、第八識自体が有する独特の空性を証得し、第八識自体が如何に空であるかを知り、またそれが出生した五蘊身が如何に空であるかを観察できる。故に大乗の空は小乗の空より究竟し、真理に近く法界の真相をより体現する。証道時の両者の智慧は大きく隔たる。
五、大乗と小乗の空は同境にあらず
声聞・縁覚の空と空如来蔵の空は二つの境界であり、差異極めて大きく混同すべからず。如来蔵の三種の空(空如来蔵・不空如来蔵・空不空如来蔵)のいずれも、如来蔵を証得して初めて現量観行可能となり、小乗の空とは全く異質である。如来蔵を証得後の心空と、未証得以前の空は混同不可で、性質も心境も異なる。「菩提に樹無し」は小乗の空であり、この段階では未だ如来蔵を証得せず空如来蔵と連関せず、後に『金剛経』の五種「何期自性」を聞いて初めて如来蔵を証得する。
六、色無常苦空非我における「空」の意味
各法には異なる次元の意味が存在し、智慧の異なる者には当然異なる次元の理解が生じる。小乗修行者は散壊破滅の空と理解するが、大乗修行者はこれに如来蔵の空性を加え、地上菩薩および仏陀は色を四大種子の運作と見て更に空無とする。色法自体が空相であるという深遠な道理は地前菩薩には絶対に観察できず、その実質的内実を真に理解し得ない。諸仏が色を観察する時は直接本源に達する。新発意菩薩は色を空性第八識の所生と理解するのみで観察力微弱、理解的要素が強い。
ただし「無常苦空非我」は主に小乗の散滅毀壊の法を指す。先に色が無常であることを証知し、色が苦であることを証知し、色が散壊して久住せぬことを証知するに至り、遂に色が無始劫来我々が考えてきた「散滅しない自我の主体」を代表するものではないと証知するのである。
七、大乗と小乗の修行地図
修行の真の着手処として、小乗の四念処経は実修の着手処であり、坐禅三昧経も同様である。大乗の父子合集経は、世尊が父王に諸法を夢の如く観行せしめたもので、理論のみを説く。初級学人を導く入門方法であるため、相似的な夢の如き理解に留まり証得には至らない。
大乗・小乗の修行地図に関しては、当然ながら先ず観行により我見を断じて証果した後に参禅すべきである。参禅の方法・我見を断ずる方法・定を修める方法は既に説かれた。我見を断ぜずして参禅すれば成果なく、参禅が成就しなければ如幻観は論じ得ず、禅宗第三関や陽炎関・夢観も論じ得ず、後の地上菩薩の修める法は尚更論外である。資料を求めて薫習は可能だが、如何に修めようと薫習の域を出ず、絶対に実証できない。修行の次第と道筋は極めて明確で、定を修め理論を学び、次に観行して我見を断じ、証果後に参禅して心を明らかにする。これらを達成せずして何を論じても無益である。大根器・特大根器の者でなければ修行を飛躍させることは不可能で、仏菩薩や阿羅漢の再来者に限り可能であり、その他は如何に跳躍しようとも越え得ない。
初地以上の菩薩は小乗仏法を完全に通達し、大乗の一部を通達するが、仏は全てを通達する。未証得の理解は決して通達とは呼べない。一つの法すら通じず、如何なる智慧の境地にも達しないためである。転依についても未証得では転依できず、第八識を実証した後初めて漸次転依し、転依の一部分が成功して心性が変化し、転識成智した段階で既に初地以上の菩薩である。凡夫が転依を論ずる資格はなく、心性は貪瞋痴に満ち、最初の我見すら断たず、肥大した自我を抱え、遮蔽が甚だしい状況で何を転依できようか。
禅定が無く、念仏も定まらず、念呪も定まらず、呼吸観が続かず、基本的な禅定さえ修め得ない者が、如何に五蘊無我を観行する能力を持ち得ようか。如何に我見を断じ得ようか。如何に参禅して心を明らかにし得ようか。心を明らかにせずして他を論ずることは、実に遥か遠きに過ぎない。