衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年10月29日    月曜日     第3 回の開示 合計114回の開示

意識の解悟は仏法の急速な滅亡を招く

意識単独の知は解悟・開悟による如来蔵の証得であり、意識は必ず証するが、意識のみが証しても真の証とはならず、意根も同時に証さねばならない。意識のみが証する場合は解悟に過ぎない。もし意識のみが証するなら、他人から如来蔵がどこにあり、どのような作用を持つかを教えられれば、即座に証悟してしまう。これが証悟と認められるなら、我々は全ての衆生に如来蔵の所在と作用を告知し、衆生が大乗法を修学せず、禅を参究する必要もなく、直接悟りを開いて菩薩となる道が開かれる。さらに各関所や段階の密意を直接伝えれば、全ての衆生が即座に証得し、成仏が極めて速やかに達成されるだろう。では世尊はなぜこの方法を採らず、密義を明説することを禁じたのか。

一切法はまず意識が解し証し、その後で意根が解し証する。意根は智慧が不足しているため、意識の思惟能力に依存せねばならない。多くの法を意識は理解していても、意根はそれを知らず、理解し証得することが困難である。

現代人の意識は過剰に発達し、容易に理を理解するが、意根の貪・瞋・痴の煩悩障礙が甚だしく、強烈な対照を成している。意識の解悟に満足すれば問題が生じ、仏教はおそらく急速に滅亡するだろう。『六祖壇経』出現以前、仏教徒は皆実修に励み、禅定と参究を重ね、決して口頭禅を弄さなかった。『六祖壇経』が出てから方向性が変わり、大衆が集まれば口頭禅ばかりとなり、経典の記述を読んで禅法を理解したと思い込み、苦労して参究する必要も修行すべきものも無くなったため、実践なき談義にふけるようになった。現代人はさらにこの傾向が顕著である。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

『大乗顕識経』講解

次の記事 次の記事

解悟と証悟の差別

ページのトップへ戻る