業種と七大種子は独立しているのか。まず業種がどのように形成されるかを見てみよう。業種は七つの識心が色身上で造作する身口意行によって形成される。その中で業を造る主人は意根であり、意根が六識を指揮し、唆し、指示して色身を利用して身口意の行為を造作し、これらの行為は種子の形で如来蔵に存在し、将来因縁が熟すと、種子が芽を出し、現行して果報を出し、因果律則を実現する。
七つの識心は七大種子の中の識種子によって形成され、色身は七大種子の中の地水火風空の五大種子によって形成され、また見大種子があり、如来蔵の機能作用である。七大種子が和合して運作し、業行を造作し、業種を形成する。それではこの全体の過程は、すべて如来蔵の機能作用と言える。
業種と七大種子の関係は非常に密接で、七大種子がなければ業種もないが、業種は七大種子の外に独立している。例えば地水火風空の五大種子が如来蔵に戻る時、業行を持って戻ることはできず、五大種子も業行や業種を造作しない。見大種子が如来蔵に戻る時も業行や業種を持って戻らない。七つの識の識大種子は業種や業行を持って如来蔵に戻るのか?肯定的にも業種や業行を持って戻らない。識種子自体は清浄で、善性でもなく、悪性でもなく、不善不悪でもなく、永遠にそうであるから、業種や業行を持たない。業行には善、悪、不善不悪の区別があり、これは識種子が生まれて七つの識を形成した後、心所法が伴って運行し、識心に善悪無記の三性があり、識種子自体にはこの三性がない。心所法が運作して出てくると、識心に善悪三性の業行があり、業種が形成され、それで業種は識種子に従って如来蔵に入ることはない。識種子は依然としてその元の清浄性を保ち、再び送り出される時も依然として清浄な識種子である。
心所法が識心に伴って運行してこそ善悪三業があり、心所法に善悪三性があり、識種子によって形成される識心に善悪三性がないので、業種は心所法と関係があり、心所法が変われば業種も変わり、心所法が清浄であれば業種も清浄である。だから七大種子と業種は二つのメカニズムで、大きな関連があっても混同してはならない。
では七大種子が如来蔵から送り出される時、業種の情報を持っているのか?持ってはいけない。種子は清浄だからで、すべての衆生包括仏の七大種子は平等で一様で、差別がない。差別は心所法にあり、業種は心所法と関係があり、識心の清浄さは心所法と関係があり、修行の鍵は心所法を変えることで、七大種子を変えるのでもなく、識種子を変えるのでもない。これらの種子は変えられない。心所法だけを変えて、それに続いて業種が変わり、絶対的に清浄になってこそ、如来蔵と同じく清浄な仏になることができる。
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