参禅とは、我々が見聞覚知する意識心をもって、見聞覚知無き如来蔵を探し求めることである。心を明らかにし本性を見るためには、参禅・話頭を参究する方法を用いる必要がある。参禅・話頭の参究とは意識心を用いることであり、法を了知する慧心所を具えた識心をもって如来蔵を参究することであり、唯だ意識心のみがこの機能体性を有する。如来蔵を参究するには必ず定力が十分な状況下で行わねばならず、最善は心中に疑情を起こし、自我の五陰の一切の活動に対し疑情を起こし、内心に常にその疑情を懸け、或いは一つの話頭を懸けた後、その疑情を体究し、最終的に疑情を解決することである。
意識を用いて粗略に分析・思惟・想像してはならない。このような情思意解は所詮解悟に留まり、真実の証悟を得られず、智慧を出生させず、或いは解悟さえ成し得ない。もし証悟ではなく解悟に留まるなら、般若智慧は生起し難く、後の道程が困難となり、煩悩も降伏し難い。寧ろ各方面の基礎を堅固に築いてから悟りを求める方が良く、基礎を堅固に築いた上で悟れば、智慧は深く鋭く、煩悩も効果的に降伏され、真実の功徳受用を得られる。
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