私たちはこの色身が私ではないことを知っているが、どうしても我見を断つことができない。なぜか。これは智慧の問題である。一つは、意識心に無我の智慧がなく、観行と思惟を知らず、証拠資料を収集することも、意根を薫染することも知らない。禅定力が不足しており、一心不乱に思惟することができず、意根に意識の観念を受け入れさせることができず、意根が意識が収集した証拠と資料を専心して考量することができないため、我見を断つことができない。
意根は無始劫以来の観念が最も難しく転ずるもので、時には意識が明らかに色身が生滅していて不実で、私であるはずがないことを知っているが、意根はこの偽りを認めることができず、ここで行き詰まる。多くの場合、意識が提供する証拠も確実ではない。例えば、1 + 1 = 2という命題で、この命題が正しいことは知っているが、なぜ1 + 1 = 2が正しいのかは知らない。もし意識が知らないなら、意根が知るはずがない。
色身の無我を観行するには、様々な側面から観行できる。例えば、片手を切断したとき、その手が私であるかを観行する。違う。手がなくなっても私はまだいる。もし手が私であるなら、私はなくなるはずだ。よってこの手は私ではない。目を抉り出しても私はまだいる。それで目は私ではない。耳を切り落としても私はまだ存在し、死んでいない。耳は私ではない。首を切断しても私は死ぬが、もし私が本当になくなったら、未来世の私もないはずだ。よってこの色身も私ではない。昨日の私は私であるか。もし私であるなら、昨日の私はどこに行ったのか。これらの問題を一つの念に凝縮し、心に浮かべておくと、いつか意根がついに理解する。「なるほど、こういうことだ。色身五蘊は私ではない」と。そうすると我見が断たれる。
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