衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月26日    月曜日     第4 回の開示 合計184回の開示

禅宗の祖師方が最も忌み嫌った「学人の意下卜度」

現代の学仏者には研究を好む者、特に文人や学者が少なくないが、研究は意識心(第六識)の働きであり、情思意解に類する。実際の仏法の修証は、決して研究ではなく、情思意解や意下卜度(思慮分別)でもない。かつて禅宗の祖師方もこれを最も忌み嫌った。しかし今や公然と意下卜度が横行し、堂堂と分別を弄び、真実の修行に励まず、仏教が変質していく様をどうすることもできない。

世俗の生活リズムが加速し、ファストフードが流行り、人々の身体を不健康にしているように、仏教も潮流に順じて「精神的ファストフード」を広め、思想が病態を呈していることに気付かず、かえってそれを美徳と錯覚している。この現象は大衆の焦燥の心から生じ、結果として更なる軽薄さを招き、口先ばかりで実修しない者が増加する。

仏教は研究の宗教ではなく、実証を要する踏み固めた修行の道である。身心を捨て、内奥から根本的に覚醒し、身心の全的転換を遂げて初めて、識を智に転じ、仏のような五蘊世界が現前する。修行は長く、焦りは禁物。仏法の基礎を堅固に築かねば、砂上の楼閣となり、いずれ崩壊する。現代の急進的な「速成開悟」は道業の成長を遅らせ、慢心を生じさせ、かえって悪業を造りかねない。

因縁が熟さず福徳が不足する時は、安易に参禅や明心を求めず、無我の理を観じ、我見を断つ基盤を固めるべきである。現代人の煩悩は全て「我執」に起因する。我見を徹底断じれば煩悩は軽減され、悪業発生の確率も激減する。逆に我見を残したまま明心すれば、無自覚に悪業を正当化し善業と錯覚する危険性がある。真の我見断ちこそが、修行の要諦なのである。

『倶舎論』が説くように「見道の前に必ず加行道あり」。現代修行者は「四念処観」で五蘊の無常・苦・無我を徹見し、「四正断」で煩悩を遮断し、「四神足」で定力を養い、漸く我見を根絶する基盤が整う。祖師方が喝破した「不立文字」の真意は、文字研究ではなく身心全霊の転換を求める点にある。焦燥の時代こそ、古人の如く「三十年座して蒲団を穿つ」覚悟が求められるのである。

——生如法師の開示
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