たとえば今、意根が捨受なのかどうかという問題を参究しようとする。ある話頭や事例があり、少し長い。例えば、人は非常に嬉しい時に手を振り足を踏み、大喜びし、怒っている時に悪口を言い合い、殴り合いをする。まず私たちは、これらの身の行いと言葉の行いは、意根が主導し指揮して作り出したもので、その中に身識と意識の参加があり、また眼識と耳識の参加もあり、いくつかの識が共同してこれらの身の行いと口の行いが現れることを知らなければならない。意根が指揮し主導して作り出したのなら、なぜ意根は二つの異なる身の行いと口の行いを作り出すのか。なぜ嬉しい時に、意根は手を振り足を踏むように指揮し、自分の嬉しさと興奮を表すのか。なぜ怒っている時に悪口を言い合い、自分の嗔心と怒りを表すのか。意根は嬉しい時に嬉しくないのか、ただ捨受なのか。意根は怒っている時に怒っていないのか、も捨受なのか。意根には嬉しい感情や怒っている感情反応がないのか。もし意根に嬉しい感情がなく、楽しくないと感じないなら、なぜ六識を主導して手を振り足を踏ませることができるのか。もし意根に怒っている感情反応がなく、苦受がないなら、なぜ怒っている時に六識を主導して殴り合いをさせることができるのか。
これらの問題は少し長いが、意識はよく思惟分析し、これらの言葉の中の意味をすべてはっきりと理解しなければならない。この時には言語文字や音声形象があり、心の中には繰り返し言語文字の相が現れる。意識がこれらの言葉の意味を表面的に理解した後、これらの意味を一つの点に凝縮し、形も相もなく、意根に渡し、そして心の中にはこの形も相もない意味を深く懸け、これは意根の思量の方式で、言語文字も音声もなく、静かで、深く、連続的で、朝もこれ、暮れもこれで、決して移らず、最後に夢の中でも夢の外でも諦めない。これが意根の参究で、意根を主とし、意識を補佐とする。前に言語文字の内容を思惟理解する時は、意識を主とし、意根が意識を補佐するが、今は逆である。これが本当の参禅の方法、本当の参究の功夫で、因縁が一つでもあれば、必ず参破でき、答えを見つけ、心中の疑いを証解し、疑情が大きく開き、参禅して悟ることができる。
意根が自分の機能体性を参究する時も、意根と自分という概念がなく、概念や文字に相応しない。言語も無駄話もなく、まっすぐで明快で、簡潔で、きちんとして、中心と重点にまっすぐ向かう。彼は飲食や排泄、歩行や座りや寝るなどに影響を与えず、五陰の正常な生活活動に影響を与えず、ただ雑念がなく、もっと多くの心思がなく、比較的集中して、雑に心を使わない。
これは意根が自分自身を参究することであり、如来蔵を参究するのも同じであり、いかなる法義を参究するのも同じである。どんなに深い法義であっても、このように功夫をしなければならず、このように努力しなければならない。意識と意根は互いに緊密に協力し、如来蔵は隠れた助手、名もない資助者となり、参究に必要なすべてのものと給養を供える。
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