衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月02日    日曜日     第4 回の開示 合計209回の開示

各種の無為法の違い

問:『金剛経』に「一切の聖賢は皆、無為法によって差異がある」とあるが、これは如来藏法に対する証悟の程度が異なることによる差異を言うのではないか?つまり、空性に対する証悟の程度が異なることを言うのではないか?

答:聖賢人には、声聞阿羅漢と縁覚辟支仏、それに菩薩と仏が含まれ、これを四聖と呼ぶ。その中で、小乗の初果と二果は賢人で、心を明らかにしてから初地菩薩までは賢人である。前の二種類の声聞と縁覚の人は小乗の根器で、大乗の成仏の道を歩まず、大乗の如来藏法を参究せず、如来藏を証悟していない。大乗の菩薩だけが如来藏を参究して如来藏を証悟できる。これが大乗の菩薩と小乗の声聞縁覚の違いである。

仏が証得した無為法は、最も究極で徹底的なもので、私も空で、法も空で、我執と法執が全部断尽し、心中は空空如也で、如来藏法も空で執着しない。大乗の如来藏を証得した菩薩は、如来藏という出世間の無為法を証得し、その後、七識の心もますます無為になり、如来藏のように、有為法の造作の中で心行は無為で、有為でもあり無為でもある。一方、小乗の声聞人は、五陰の無我の我空を証得した。これは小乗の無為法である。縁覚は、十二因縁の縁起法を証得した。一切の法は因縁によって生じるので、空である。これも一種の無為法である。その後、声聞縁覚の心は造作をせず、七識も無為になる。この無為性は如来藏とは異なる。如来藏は、一切の有為法の造作の心行が無為で、有為を廃止しない無為である。一方、声聞縁覚は、有為を廃止するような無為で、成仏して衆生を度るという最も有意義な大事さえもしない。仏はこれを焦芽敗種の無為と言う。

声聞と縁覚が証得した無為法は、一種の仮相で、本当の無為の如来藏に依拠して初めて存在するもので、究極でもなく、本当でもない。また、法相を本当にあるものと見なし、三界と六道を本当にある法と見なし、苦受を本当にあるものと見なしている。これらが皆如来藏によって幻惑化されたもので、実質的にはないこと、皆如来藏性であることを知らない。だから、彼らが証得した無為法のレベルは非常に低い。菩薩は、雖然如来藏の無為法を証得しているが、レベルは声聞縁覚より高いが、修行の程度が足りないため、完全に如来藏に依拠していない。心行はまだ完全に空でも無為でもない。これも究極ではない。只有仏才是究極で徹底的な無為である。

ある人は、声聞縁覚も如来藏を証得したと言う。もしそうなら、声聞縁覚も菩薩で、菩薩と区別がなく、発心も同じで、願力も同じで、皆、引き続き深入りして如来藏法を修行し、菩薩の道を歩むべきで、自利利他を行うべきである。しかし、彼らの行為は菩薩の道と相反しており、慈悲心が出ていない。三界の苦を恐れ、自分の輪回を恐れ、引き続き修行しない。救度衆生しない。涅槃に入ることを選択して、完全に菩薩の心行ではない。

もし声聞縁覚も如来藏を証得したなら、彼らは如来藏が五陰の身上でどのように作用し、どのように五陰身を生じさせて五陰身を執持するかを知るべきで、有為法と三界の苦を恐れて涅槃に入ることを選択しないべきである。しかし、彼らは如来藏法に対して完全に無知で、五陰の苦も幻惑化されたもので、恐れて避ける必要はないことを知らない。如来藏を証悟するには、現前で如来藏を観察できるべきで、ただ如来藏の名前を聞いて如来藏があると信じるだけでは、証悟からまだ十万八千里も離れている。だから、声聞縁覚は絶対に如来藏という無為法を証得していない。むしろ、小乗の五陰の無我と十二因縁という無為法を証得している。証得した無為法が異なることにより、聖賢たちには大小高低の異なる差異がある。菩薩た们も、如来藏を証得した程度が異なることにより、智慧と果位上の差異がある。

外道にも無為法がある。四禅定を修得したときは、不動無為で、身心ともに動かない。呼吸もなく、脈拍もなく、心拍もなく、分别もなく、心念もなく。無想定を修得したときは、意識が滅じ、心は更に無為になる。非想非非想定を修得したときは、意識が受と想の二つの心所法を滅去し、想受滅無為と呼ばれる。行動をせず、造作をせず、動かないことが、生滅法の無為である。

——生如法師の開示
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菩薩の心行は、衆生によって推測できない

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