衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月03日    月曜日     第3 回の開示 合計212回の開示

何が波罗密か

生死の流れに従う者は凡夫で、生死の流れに逆らう者は阿羅漢で、従わなくても逆らわない者は菩薩で、彼岸に至る者は仏である。生死の流れに対して、菩薩の態度は、従わなくても逆らわないというものである。なぜなら、生死の流れに従うと、菩薩は輪回に苦しみ、自らを度すこともできないのに、他をどうやって度せるでしょうか。生死の流れに逆らうなら、生死を捨てなければならず、阿羅漢のように無余涅槃に入る必要がある。そうなると、色身五陰がなくなり、自分だけでなく、引き続き修学することもできず、仏道を成就することもできず、広く衆生を度ることもできなくなる。これは自分の誓願に背くことになる。だから、菩薩は生死に対して、逆らわないし、従わない。

私たちが仏を学び修行する目的は仏になることである。仏は大智恵の成就者である。だから、私たちの修行の究極の目標は大智恵を得ることであり、智恵による解脱であり、智恵による仏になることである。全ての方法や手段は智恵を得るためのものである。智恵があれば無明はなく、無明があれば智恵はない。無明を破り智恵を得る。そうなると、私たちが布施波罗密を修めることで、智恵を得て、彼岸に至ることができる。持戒波罗密、忍辱波罗密、精进波罗密、禅定波罗密を修めることでも、智恵を得て、彼岸に至り、究極の解脱を得ることができる。

波罗密とは彼岸に至る、生死の此岸から離脱するという意味である。私たちの本覚心には無明もなく、生死もなく、生死のこの岸にもなく、ないということもない。それは生死のないあの岸にもあり、あるということもなく、あの岸がないということもなく、これが本覚の中道性である。私たちが修行して全ての無明を破り、究極の智恵を得ると、本覚と対応し、生死もなく、生死がないということもなく、即ち仏地の解脱色がある。即ち涅槃にありながら、涅槃に入らない。これが仏地の無住处涅槃であり、どこにおいても自由自在で、どこにおいても解脱している。もし私たちの修行方法で智恵を得ることができず、解脱することができないなら、本当の利益はない。私たちは再び考え、正しい修行方法を選ぶ必要があり、より早く仏地に向かい、究極の智恵を得るために役立つようにする。

——生如法師の開示
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