衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月16日    日曜日     第1 回の開示 合計246回の開示

心の解脱の基準

私たちが初禅が現前するとき、外界にどんな境遇があろうと、他人がどのようにあなたに接しようと、内心の煩悩は決して現れません。時には悲しいこともありますが、それは表面的なもので、内心の深くまで入り込むことはできません。その時、心は銅壁鐵牆のようになり、外から入らず、内から出ません。外界の侮辱も本当に内心に触れることができません。心には一層の保護膜があり、この境地を煩悩が心に侵さない、心に煩悩が起こらないと言います。これは『阿含経』に記されている「心が自在で、心が解脱する」という境地です。

この段階まで修行すると、自らは生生世々恩恵を受けることができます。そのため、二果以前は、心は自在でも解脱でもありません。なぜなら、貪・嗔・痴の煩悩と関係しているからです。心の解脱は、意根を主としています。意根に貪・嗔・痴が備わっているからこそ、六識が貪・嗔・痴の業行を行うように促されます。意識はさらに解脱しており、前五識も解脱しています。目は色を貪らず、五識は色・声・香・味・触を貪らないのです。意根の第七識は、我見を断つだけで、一分の解脱の功徳を享受することができます。我執を断つと、完全に三界の世間法の縛りから解脱し、自らを滅ぼす能力を持つようになります。これは三果、四果の阿羅漢の境地で、命終の際に三界から解脱する能力を持つのです。本当の心の解脱は四果で、我慢が尽き、五上分結もすべて断ち切り、自らが自らの後世に生まれないことを証明できるのです。

——生如法師の開示
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心の解脱は意根を主とする

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