歴代の祖師は皆弟子に定を修めるよう教えています。昔、寺院に設けられた禅堂は学ぶ人が座禅して定を修め、参禅するためのものでした。唐宋時代の修行者は皆禅定を持っていました。その時は経典が非常に希少で出会いにくく、めったに読むことができませんでした。学仏者は座禅して定を修めるしかなかったので、彼らの定力はとても良かったのです。静の中の定も動の中の定も具足し、心は外縁に向かわず、常に定の中にいました。だから彼らは禅師が仏法の真実の意味を開示する時、すぐに悟りに入ることができ、またいつでもどこでも世を離れて生まれ変わり、思いのままに自分にとって学仏修行に適した両親の家に生まれ変わることができました。
それほど良い定力を具足していると、禅師が上堂して機に応じて法を説く時、堂下にいる人が悟りを開くことがあります。昔の学仏者は一日中ずっと参禅し、仏法を思惟していました。だから彼らは縁に触れるとすぐに悟ることができました。彼らはその時あまり多くの禅法の知見もなく、多くの仏法の理論もなく、ただ如来蔵真如心のいくつかの体性を知っており、信じて疑わず、参禅を始め、如来蔵を探し求めました。だから今の人よりも速く、容易に悟ることができました。それは定慧が具足し、善根福徳も具足しているからです。昔の禅師が法を説く言葉は比較的含蓄があり、表現があまり直接的で露骨ではありませんでした。学ぶ人の戒定慧が具足していなければ、証悟することは難しいです。今のように仏法がすでに非常にはっきりと説かれているのに、学ぶ人はまだその真意を理解できていないのとは違います。
禅定は外道に通じます。禅定があっても必ずしも道があるわけではないが、禅定がなければ、必ず道がなく、禅定を離れて道業を成就することは不可能です。
定力のない人は、心思が粗く、比較的深い仏法の理を悟り抜くことは不可能です。それでは本当に完全に我見を断ち、明心することは不可能です。だから、参禅には極めて良い定力が必要で、参禅する前に必ず禅定を修めてから参禅しなければなりません。
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