衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年01月10日    木曜日     第1 回の開示 合計315回の開示

参禅の方向

参禅の方向は、行住坐臥の一切の五陰の活動の中で、それぞれの法が現起するたびに、その実質が一体何であるかを探究することである。皆が五陰は虚妄であると言っている。虚妄であるなら、なぜ現れるのか。行住坐臥の行陰はすべて幻化物である。一体どのようにして幻化されたのか、誰がこれらの相を幻化したのか。座禅をするとき、座禅をする人はいるのか。誰が座禅をしているのか。第八識の如来蔵は座禅をせず、第七識の意根は座禅をせず、意識心も座禅をせず、前五識も座禅をしない。身体に識心がなければ座禅もできない。それでは、我々は考えてみよう。座禅をする人はいるのか。誰が座禅をしているのか。座禅という法はどのようにして形成されたのか。これが参禅であり、参透すれば開悟する。

我々が話しているとき、誰が話しているのか、話す人はいるのかを考えるべきである。話すという法はどのようにして形成されたのか。第八識の如来蔵は話さず、第七識の意根は話さず、意識心は話さず、前五識は話さない。舌に識心がなければ話すこともできない。そうでなければ死人も話せることになる。一体誰が話しているのか。またどのようにして話し、言葉はどのようにして形成されるのか。これが参禅であり、参透すれば開悟する。念仏をするのは一体誰なのか。経典を読むのは一体誰なのか。すべての事に対して疑問を持ち、因縁が整ったときに、疑問を解決し、迷いを破って開悟することができる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

円覚経における随順覚性とは何を指すか

次の記事 次の記事

選法眼とは何か?

ページのトップへ戻る