衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月12日    火曜日     第2 回の開示 合計395回の開示

修行は次第に従うべきである

通常の場合、修行は次第を追って修めるべきであり、各段階ごとに修行内容が異なり、修行の層次が違えば内容も異なる。凡夫には凡夫の修行方法があり、賢人には賢人の修行方法があり、聖人には聖人の修行方法がある。凡夫が聖人の修行方法を使用することは絶対に不可能で、差が大き過ぎて全く力を発揮できない。

凡夫は五蘊の生滅変異無常を観行し、四聖諦(苦・集・滅・道)を観行するか、あるいは参禅によって明心を求めることしかできない。凡夫は八地菩薩の証得した境界、例えば「住することなく着することない」「一切法を空じる」「相を取って分別せず」「任運自然」などを観行することはできない。

凡夫と悟後の賢人は、まさに有心と相に着して善法を修める段階にあり、賢人は既に一部の相を破ったとはいえ層次が浅すぎる。この段階で相に着せず、相上で一切法を認知しないと主張することは、不可能であるばかりか、慢心を生じ因果を否定することになる。例えば凡夫が肉を見た時、「これは衆生の肉であり、慈悲心から食すべきでない」と考えるのが正しい修行方法である。この時、肉を空と見做し無相とし真如と見做し、「食しても食さないのと同じ」と考えて大口で食べながら、自らが真如の境界に入ったと錯覚するのは、実際には貪欲の境界に入ったのであり、誤った修行方法である。

例えば凡夫が男女の相を見た時、「男女の相を空じ真如の一相と見做す」と言って、自らが既に男女相を超越したかのように思い、無遠慮に交際すれば、定力が著しく不足し道を外れる結果となる。この修行方法は「悪取空」とも呼ばれ、罪業が甚大である。異性が特別な要求をしてきた際、相を執着せず相手を空・真如の化身と見做して「随縁」とすれば、菩薩戒の十重戒を犯し地獄行きが確定する。所謂「随縁」には、真に空を証得し心を空じて相に着せず、初禅の定力と初地以上の菩薩の智慧が必須である。これらを具えぬ凡夫が口先だけで「随縁」を唱えても実践不可能であり、戒律を堅守し修行次第を踏むべきである。

凡夫が過去の罪業を懺悔するには、相を取って自らの悪心悪行を悔い改め、悪い心行を改めるべきである。ところが大乗の無相懺悔を行い、「一切煩悩は菩提であり真如の相」と強弁しつつ無相を証得できぬまま安心するのは、罪業が未消除のまま果報を招く「悪取空」である。

仏法の修行には次第と規矩があり、でたらめに行ってはならない。菩薩の為し得ることを凡夫が行えば、異性への「随縁度化」など深甚な禅定を具えた地上菩薩の所業を凡夫が真似れば、三悪道に堕ちる。

現在の仏法は混乱を極め、多くの者が地上菩薩や仏陀の修行境界を知識として理解し、それを口実に「自分も達成できる」と錯覚している。善財童子の善根福徳もなく、着実な禅定観行も怠りながら、可能だろうか。

我々は「口頭禅」の習慣を改めるべきである。仏法は実修して初めて実証できる。実修実証はスローガンではなく、具体的な実践方法が必要である。方法なき「実修」は虚偽であり、たとえ仏の言葉を語れても無意味で、一歩一歩着実に歩むべきである。

——生如法師の開示
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