衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月18日    月曜日     第3 回の開示 合計415回の開示

風が動く?幡が動く?それともあなたの心が動いているのか?

壇経において六祖が説いたのは、風が動くのでも幡が動くのでもなく、仁者の心が動くという公案である。この公案には外相たる風幡の動転が関わり、識心の動転も関わり、さらにそれだけでなく真心第八識の不動転も関わっている。我々の七識妄心は攀縁し、境界相に着くからこそ風の動きと幡の動きを見るのである。六識に見るもの覚受するものがあれば、即ち動いたのであり、識心が動けば相を見、相を見れば相を取る。六根が六塵に触れると、第八識は六識を生じ、六識が再び六塵に触れることで見聞覚知が生じ、一切の事を知るのである。

故に知がある時は識があり、識がある時は意根が六塵を攀縁したことを示す。七つの識心は全て動いている。もし意根が攀縁しなければ、塵に触れようとせず、第八識もまた識を生じて六塵を了別しない。意根の執着攀縁が重ければ重いほど、六識の分別は多くなり、心はますます清浄でなくなる。しかしこの一切の識動の中で、真心第八識は微動だにせず、常に寂静である。風が如何に動こうとも、幡が如何に動こうとも、真心は覚知せず、全く応じず、分別せず、念想せず、極めて寂静である。だが風幡が激しく動く時、全く動かない真心第八識を見出すことは充分可能である。それは当人の福徳と定慧の如何による。

風幡が動く時、第八識は動かないというのは、未だ悟道していない凡夫に対する説き方である。第八識は動くとも言える。第八識は決して閑けしたことがなく、常に識種を輸送し、根身器界を了別しているからだ。第八識が働かなければ、内相分の発生もなく、識心の発生もなく、識心は風幡の動きを知ることができない。しかし第八識の動きは七識心の動きとは異なり、永遠に三界世間の六塵境界法の中で心思を動かさない。故に真如は動かず、如如不動と説かれるのである。

——生如法師の開示
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