衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年10月21日    日曜日     第1 回の開示 合計77回の開示

禅定は解脱の智慧を得るためのもの

禅定を修める時、外道定の要素が多ければ、禅定を修めることは貴重な修行の時間を無駄にすることになり、臨終の時になって自分の一生の修行が何もなく、何の智慧もなく、依然として生死の業縁に従って輪廻し続けることに気づく。多くの人は自分の禅定が上手だと誇りに思っていて、入定すると何も知らなくなったり、不思議なことがいろいろ起こったりするが、実際には最後にはこれらはすべて跡形もなく消えてしまい、依然として何も得られない。禅定を修める目的は心を落ち着かせ、そして専念して仏法を思惟観行し、仏法を証得し、解脱の智慧を得ることである。もし解脱の智慧を得られなければ、その禅定は追求する価値がない。

心に正念を持たなければならない。禅定を修めて出た後、専念して真如を念じ、五陰無我を念じ、一切の法が無常であることを念じ、心に仏法を念じてこそ正であり、心が散らばっていれば正ではない。既に身体も識心も自分ではないことを知っていれば、それは思惟観行の結果である。今考えているすべてのことをしようとする心が自分ではないことを観察することが観行であり、一方で事をしながら自分に問いかける。「これがどうして自分なのか?どうして自分ではないのか?」これが観行である。定中の観は意根に深く入り、意根が観行に参加し、それに相応する。このように修行すればとても良く、道を証得する希望がある。

意識が自分の色身の外に出て自分を観察し、傍観者の角度から自分を観察することができれば、それは意識の証自証分の機能であり、意識の反照作用であり、反观力とも言われ、慧力とも言われ、自分の心の行いと煩悩の習気をはっきりと照らすことができる。力と言われるからには力強さがあり、心の中の疑問を解き、問題を解決できる。これが正しい修行である。もちろん問題を解決すれば、その中に意根の力もあり、意根は意識を借りても自分の心の行いの状態を観察し、それによって自分を変えることを決め、如来蔵が変えるのを助ける。

一日中座禅をしている人々は、どんなに座ってどんなに定めても、依然として自分の心を観察できず、反观できず、覚照力や慧力がなく、依然として五陰無我を知らず、無我の解脱の智慧が生まれず、生死の大事を解決できない。私たちは四念住の方法に従ってよく修行すれば、きっと大きな収穫があり、ゆっくりと五陰の作用がすべて真実ではなく、自分ではないことを如実に観察できる。

意識を色身の外に出して自分を観察してこそ、何らかの悟りが得られ、色身と完全に融合してしまうと、覚照力を失う。自分の心の行いをチェックする時も、心を出して反观してこそ、自分の心の行いを観察することができる。最後に観ることと観られることが両方とも自分ではないことを観察し、心は捨の状態に住み、心の中で一切の相を消し去る。自然に無我で真実ではないという結論を出さなければならず、無理やり当てはめたり、牽強付会したりしてはいけない。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

意根の無我

次の記事 次の記事

戒定慧を具えて初めて証悟でき、解悟を避ける

ページのトップへ戻る