衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月02日    火曜日     第4 回の開示 合計9回の開示

参禅の用功方式は尋と伺にある

参禅の初期の用功は尋の方式を用いる。尋とは、意識心がやや粗く第八識という目標を探し求めることで、定力が十分に深くないため、慧力も大きくない。定力が良く、意識心も深く細やかになった時、参禅は伺へと転じる。伺は、猫が目標を発見し、動かずにその場で目標の出現を待つが如し。意識心が既に第八識の出現する大まかな目標を発見したため、極めて深く細やかに観行し、心念はほとんど動かない。この段階の参禅には方向性が必要であり、第八識如来蔵がおおよそどこに出現するかを知り、意識心が猫が鼠を伺うように静かに観察し、深く細やかな思惟観行を行えば、悟道に近づく。    

参禅という法は、真妄心が和合して初めて行えるもので、真妄心が同時に作用しなければならない。その中で真心第八識は思惟活動を行えず、法塵を分別できず、直接的な参禅活動に参与できない。妄心である意識は一切の法を思惟し、六塵を了別し、直接参禅することも可能であるため、依然として意識心を主として参禅活動が行われる。意識心が法塵に対応し、法塵を分別できるため、その分別思惟は極めて深く細やかになり、了知性が非常に強く、一切の心理活動は意識心を主とし、参禅も例外ではない。

参禅とは所謂る思惟修であり、参究とも称される。意識による参禅は思惟を離れられないが、空想に基づくものでもなく、感情的な解釈や過剰な分析、憶測を挟んではならない。定力が具足した状況下で深く細やかに参究する必要があり、それは意根にまで達した深層の思惟である。この種の思惟は極めて細やかで、思想の念頭はほとんど動かず、待機に近い状態となる。まず目標を探し求め、第八識の出現する目標を見出した後は、猫が鼠を伺う如く、これを捕らえるのを待つ。この時も受動的な待機ではなく、内面では依然として深層の思惟参究活動が進行しており、虚妄法の背後で真心が働く微細な痕跡を秘やかに注意深く探求している。

参禅の最初の段階は探求または探索であり、最終的に伺へ至り、待機となる。思想の動きは深く遅くなる。ある者は参禅には意識心を離れる必要があると説くが、意識心を離れれば思惟が成立せず、意識心を離れることは意識心を滅することに等しい。意識心が無ければ無想定中もしくは無夢睡眠時にあり、参禅は不可能である。二禅以上の意識心は過度に微細で、参禅にも適さない。参禅の定境を適切に把握して初めて最良の参禅状態に入り、最終的に心を明らかにし、或いは本性を見ることができる。

——生如法師の開示
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