仏法を学び始めた者には疑問が生じる。疑問が解決されなければ、道業の進展を妨げる。従って何らかの方法で疑問を解決すべきである。その一つは他者に教えを請い疑問を解き、二つ目は教示を受けた後、自ら思考し証拠を求め、更に直接疑問を解くことである。
明らかに多くの疑問があるにも関わらず、解決せず、ひたすら禅定を修めて疑問を覆い隠すなら、如何にして疑問を解除し智慧を得られようか。
身体を我と見做さない為に、無情物を自らの身体と想像し、様々な空想を巡らせながら、何故色身が我でないかを決して思考しない。これでは依然として色身の我が存在し、束縛から解脱できない。更にこの色身への我見が断たれないまま、識心の機能作用が我でないと想像する。これらの空想は依然として美しい感受への貪愛であり、現在の苦の感受を別の空想的な楽の感受で代替するに過ぎない。全ての受が何故我でなく、真実でなく、生滅変異無常であるかを仔細に思惟観行せず、現実を逃避し空想の中で享受することも、一つの貪愛と束縛である。以後の内容も全て同様で、空想と情思意解に終始し、観行体験と過程を欠く。これは真の修行ではなく現実逃避である。
理数系に優れた者は論理的思考力が極めて良く、仏法の観行に活用すれば実用的である。一方、文人墨客は仏法の学習を研究と情思意解に頼り、観行を理解せず、道理に沿った思考ができず、結果として理解力と研究力に優れ文才があるが、何も証得せずに一篇また一篇の理論的文章を生み出し、人々を眩惑して惑わす。
世の中に眼を開いた者が何人いるだろうか。孫悟空のような金睛火眼を持ち、全ての偽装を見破り真相を還元する者が。仏法を学び修行することは、何らかの果位を追求したり果実を得ようとするのではなく、真に解脱の智慧を獲得し、心が解脱に到達することである。これが修行の根本目的である。果位や虚名を追い求めることは本末転倒であり、本来解脱していない上に更なる束縛を自らに課すことになる。虚栄を追求することは依然として「我」の存在であり、如何にして我見を断とうか。末法の衆生は福徳薄く、修行を逆さまに行う。明らかに我見を破るべき時に却って我見を増長し、無我を目指すべき所で至る所に我が存在する。修行の本質的意義を理解せず、理解しようともしない。仏法を学ぶ目的が依然として「我」のためであり、「私が如何に如何に」という発想は道に背馳し、追求すればするほど速く走り、造作を重ねれば重ねるほど道から遠ざかる。
我見を断つことは真に困難で容易な事ではない。一部の者のように本を数冊読み、推量を重ねて無我の果をポケットに収めるようなものでは無い。道程はまだ遥か遠く、八万四千里の長征が始まったばかりである。急いで果を得ようとする心こそ依然として「我」の領域を出ず。「私が証果を得る」「私が聖人となる」というこの「我」の存在で如何にして証果や聖人たるを得ようか。
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