衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月17日    月曜日     第3 回の開示 合計253回の開示

仏法を学ぶ目的は無我を達成することである

多くの人は毎日、ただ話すために話し、自分自身をアピールし、自らを示すために口をふさぐことなく、心の中には「我」が非常に重く、自分自身の身・口・意の行いを振り返ってチェックすることすら知らない。修行とは何をすることなのか?もう少し口数を減らすように言われると、心の中で不満を感じる。毎日無我を叫んでいるのに、心の中の「我」は依然として重い。自分自身で振り返ってみて、修行で一体何を修めたのか、それに力があるのか?

自分自身の心の中をチェックして、なぜ不満の気持ちがあるのかを考える。もし心の中に「我」がなく、「我」が重くないのであれば、不満を感じることができるのか?自分に都合のいいことがあれば喜び、都合の悪いことがあれば、悲しみ、憂い、憎しみ、苦しみを感じる。これはまさに「我」の表れである。これは無我とまったく反対である。修行の最終的な目的は無我に達することであり、毎日自分自身の心の中の「我」を溶かすことが、最善の修行である。千の経典や万の論を学ぶのは、無我に達するためであり、ただ仏法を学ぶために仏法を学ぶのではない。仏法を学ぶ目的は無我を達成することである。もし毎日自分自身の「我」のために仏法を学び、自らを自慢するのであれば、それは修行と真逆の方向を向いているのではないか?

第七識の意根における我執が重い原因は、「我」の相に執着し、常に自分自身を際立たせ、自分自身をアピールしようとすることである。「自分はこうで、ああで」と言い、間違っていると告げられると、すぐに自分を弁解したり、腹を立てて立ち去ったりする。これらはすべて非常に強い「我」の心の表れである。本当に早く修行し、早く道業を進めたいのであれば、毎日自分自身の煩悩心所法をチェックし、以前より減っているかどうか、感情的な表現が減っているかどうか、慢心と「我」の心が軽くなっているかどうかを見るべきである。これこそが正しい修行である。たくさんの知見を学んで、その結果、「我」の心と慢心を増やすのであれば、それは間違って学んだことになり、逆の方向に進んでしまったことになる。

——生如法師の開示
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