衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月18日    金曜日     第2 回の開示 合計329回の開示

有相戒と無相戒

問:末法の時代、我々はどのように戒を保つべきか?仏道を学び始めた者は五戒と八戒を守るべきで、久修の菩薩は有相戒を守る必要がなく、相を捨てて分別せずに直接大乗菩薩の無相の心地戒を保てるのか?

答:まず初学の菩薩と久修の概念の内実を明確にする必要がある。どの段階の者が初学に属し、どの段階の者が久修に属するか、それぞれの特徴は何か、心理状態はどうか。

久修の菩薩は多生多劫にわたって菩薩行を積んできたため、菩薩の習気を有する。生まれつき煩悩が極めて微弱、あるいは全く煩悩がなく、身口意の行いが清浄で、人に教えられずとも自然に自覚的に行動し、さらに無意識に衆生を教化して善に向かわせることを好む。これは自己顕示のためではなく、純粋に衆生が悪を捨て善に従うことを願うためである。菩薩が生来煩悩が微弱あるいは無いならば、それは地上菩薩の再来でなければ成し得ない。前世ですでに煩悩を断じており、今生では隔陰の謎があるため、ごく稀に微弱な煩悩が現れるが、これは煩悩習気と呼ぶべきである。

久修の菩薩は生生世世にわたり菩提を証悟してきたため、今生で仏法に出会えば前世の修行の慣性と方法に従い自然に修行し、速やかに禅定を生起させ、間もなく自ら証果し再び明心開悟する。困難を感じることはない。証果と明心後は速やかに前世の証量と接続し、果位は前世の果位のまま、禅定も前世の禅定のままである。修行を継続すれば道業の進歩は速い。衆生教化に関しては、新たに学んだり習ったりする必要がなく、自然に衆生を教化する方法を理解し、衆生を貪瞋痴に導かず、衆生の煩悩を容赦せず、自然に厳格な師匠となり、弟子に高標準を要求する。

このような久修の菩薩のみが効果的に大乗菩薩の心地戒を保てる。心地がすでに清浄であるため、五戒や八戒などの仏陀が制定した有相戒を犯さず、特に守ろうとしなくても自然に戒を犯さず、身口意の行いが清浊である。初禅以上の禅定を有し煩悩を断じた清浄な心地を基礎として、初めて無相心地戒を保てる。心は戒相の束縛を受けず、心地の清浄を損なわない限り、衆生救済を目的とする行為はすべて可能であり、自己の貪欲に従うものではない。

もし菩薩の心に貪欲や瞋恚、愚痴が残っているならば、厳格に有相戒を守らねばならない。五戒八戒を条項ごとに厳守し、決して犯さず、犯せば痛切に懺悔しなければならない。特に菩薩戒は厳格に遵守し、些細な自己容赦も許されない。貪瞋痴の煩悩が全く断たれておらず、未到地定さえ持たない菩薩は、無相戒を保つ資格がなく、そもそも保てない。心地が清浊でなく、起動する念慮がすべて煩悩と相応しているため、有相戒を守り、様々な事相から自心を律さねばならない。初禅が生起し煩悩を断じて初めて、相を捨てて心地の清浊を保つことを試みられる。

上記の久修菩薩の特徴を持たない者はすべて初学の菩薩に属し、有相戒を厳修し、身行と口行の規律を放棄して貪瞋痴の煩悩に従って勝手に振る舞ってはならない。肉を断てず、酒を断てず、葷腥を断てず、口福を享受したい者が「私は相を取らず分別せず、心地戒を保っている。葷腥を食しても内心では葷腥の相に執着しない」と口実を設けるならば、なぜ糞を食さないのか?なぜ食事の献立を日替わりで変え、繰り返しを嫌うのか?365日同じものを食べても飽きず、善く止足を知るべきではないか?春夏秋冬各季節に一着ずつの服で十分ではないか?喉が渇けば水を飲めばよいではないか?他人の口や胃に入るわけでもないのに、なぜそんなに気を使うのか?

現代の仏教学習者は憐れむべきであり憎むべき存在である!明らかに善根が浅薄な者が久修菩薩を自称し、五戒八戒菩薩戒さえ守れない者が無相の心地戒を唱え、自覚が全くない。全てが高尚なスローガンを叫ぶ者ばかりで、このままでは仏教は必ず衰退し、成就する者はいなくなる。釈尊が親しく説かれた戒定慧の三無漏学を、今まさに戒学と定学を廃し、乾慧の慧学だけを求める者たち。仏法を論じれば雄弁で理路整然としているが、実際には何の修養もない。これが現代仏教界の乱相であり、衆生の強い慢心によって正される見込みはない。

——生如法師の開示
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