「知見を立てて知ることは、すなわち無明の根本である。知見において無見であることは、これこそ涅槃である。」昔、ある人が『楞厳経』のこの二つの文を再び句読点をつけ直しました。「知見を立てると、知ることはすなわち無明の根本であり、知見がないと、見ることこそが涅槃である。」その後、その人は悟りを開きました。では、その人は何を悟ったのでしょうか?第一の文の意味は、六塵を知る知を持ち、その知を真実として立てることが、無明であるということです。
この知は生滅する虚妄な法であり、七識心の知であり、様々な定の中の境界の法塵を知る知も含み、意識心の知であり、自分自身が定に入ったことを知る知です。もしこの時、心が空であると思い、それが如来蔵の空と同じであり、悟りの境界であると考えるなら、間違っています。このような間違った認識こそが、無明です。第二の文の意味は、知見を持たない心があり、六塵を知らず、六塵を見ない心が、これこそ涅槃の心であるということです。涅槃は生まれず、滅もしません。それは六塵に対して反応せず、煩悩を起こさず、無明を持たず、自性は清浄です。この心を見つけ、この心を証得することが、悟りを開くことであり、自性清浄涅槃の心を証得することです。そして、その人は道を悟りました。後の人たちはその人に「楞厳を破った者(破楞厳)」と名付けました。
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