衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月27日    日曜日     第4 回の開示 合計354回の開示

無所得のみが仏を成ずる

仏は『金剛経』において、仏は無所得によって仏と成り、一法も得ずして初めて仏と成ると説かれた。もし一法でも得る有りと認めるならば、仏と成ることはできない。なぜこのように説くのか。仏は大智慧・無上智慧によって仏と成った。仏の智慧は如何にして得られたのか。仏は凡夫より修行を始め、三大阿僧祇劫を経て漸く全ての無明を破り尽くし、一つの無明を破るごとに一つの明が現れ、心の闇が一部消失するごとに一部の光明が現れた。この光明が智慧である。全ての無明が滅尽すれば一切種智が現前する。故に仏の無上智慧・無等等智慧は獲得したのでもなく、得たのでもない。無明を滅尽して顕現したものであり、換言すれば仏となることは何らかの法を得ることではなく、一法も得ずして全ての障礙を除去し、心の光明が自然に顕現することである。従って我々が仏法を学び修行する目的は、無明を破ることにある。何かを得ようとする心こそ無明であり、障礙であり、智慧が現れない所以である。    

真の正信には現量観察の智慧が必要で、これ無き信は偏信と盲信に流れ免れない。たとえ仏経であれ、真に智慧ある者は疑いを留め、実際に検証する方法を求めるべきである。まして仏説に非ざるものにおいては尚更である。

インターネット上には、六祖が仏の再来であり、説法に仏の証量を具え、六祖は既に仏を成じたと主張する者が少なくない。私は真に知らない、これらの人々が何を根拠に六祖についてこのような断定を下すのか。ある人物を大学教授級と認定するには、当の大学教授より高い水準を持つか、少なくとも同等の水準が必要で、初めて認定を与え得る。末法の衆生は既に悉く仏を成じたかの如く、仏の智慧をもって六祖が既に仏を成じ、仏の智慧証量を具えたと認定している。『六祖壇経』という薄い冊子を、恐らくこれらの者の中で理解できる者は一人もおらず、さもなければ誰もこのような断定を下す勇気は無いだろう。

——生如法師の開示
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