非量とは、誤った認知、すなわち邪見を指す。明心見性を成し遂げる以前において、七識心が自我に対する認知は全て非量であり、全て邪見である。たとえ我見を断じて阿羅漢果を証得した者でも、五蘊の自我に対する認知は完全に現量(直接知覚)ではない。なぜなら阿羅漢は五蘊身心の実質が何であるかを依然知らないからである。よって、五蘊身心に対する認知が完全に現量観察であり、一片の邪見もない存在は仏陀のみである。仏陀の智慧は完全に現量の智慧である。
五蘊自我への非量的認知は、全て意根の無明に由来する。そのため、仏教を学び修行する全ての目的、そして最終的な目的は、意根の非量的認知を破り尽くすこと、意根の全ての倒錯した邪見を破り尽くすことにある。意根の無明が断じ尽くされた時、直ちに大乗の無学(これ以上修学を要しない境地)となり、再び修学する必要がなくなる。
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