非量とは事実に合致しない認識を指すが、この「事実」も異なる層次に分かれる。真実の事実とは法界実相であり、一切法は如来蔵性である。世俗法における事実の真相は六塵の外相分(本質境)であり、全ての如来蔵が共同で顕現した第一次の相である。この本質境を基に、個々の如来蔵が独自に伝導・顕現して性境を形成し、後頭部の勝義根に第二次の相を成す。
実際、この相は第一次の相と一定の差異を有するが大略は一致する。各種介子(媒介物質)を経由する伝導過程において、四大の微粒子が介子に阻害され、通過後には数量と構造が変化する。伝導距離が長く介子が密集するほど、四大微粒子の変容は大きく、物質は原初の状態との差が拡大する。故に遠方の物体は眼に鮮明に映らず曖昧に感じられる。
この第二次の相も事実真相と呼び得るが、相対的な実在性を持つ。五識・六識はこの相貌を了別する。もし正確に了別し第二次の相に合致すれば現量了別となる。第二次の相を誤って歪曲認識すれば非量となり、他の参照物との比較を必要とする場合は比量了別となる。
第七識はこれらの相を全て自己の所有物と見做し、実在と執着を生起させる。これこそ非量了別であり、一切法を「我」と「我の所有」と見做す非量の境地である。智慧なくして観行により「これらは実在せず、我の所有でもなく、如来蔵の顕現であり無我・生滅・幻化・虚妄である」と証得しなければ、意根の非量認知を滅却できず、大智慧を得て諸法に束縛されぬ大解脱も達成できない。
故に、意識の我見を断つだけで良しとする者、意識に明心見性を求め解脱の智慧を得させれば足りると考える者がいるが、到底成り立たぬ。明らかに意根の無明が世間一切法を演じ、意根を生死輪廻に縛っている。意識の無明を断つだけで何の益があるのか。意根こそ生死の根元である。根を掘り起こさず意識という枝葉を切り払っても何の意味があろうか。
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