衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年02月03日    日曜日     第2 回の開示 合計373回の開示

意根の作主性

意根が水を飲みたいと欲すれば、六識は出てきて湯を沸かし水を注ぎ茶を淹れ、口に含む動作を遂行する。意根が水を飲むことを欲さなければ、六識は一切の行為を起こさない。意識は永遠に意根に及ばず、決して主人足り得ない。なぜなら意識は生み出された法であり、意根が出生の可否を決定する従属的存在で、意根に奉仕する役割を担い、かつ意根を十分に奉仕せねばならないからである。奉仕が不十分であれば意根は不快を覚え、時には感情を露わにする。意根が真に感情を爆発させた時、意識は不可解さを感じる場合がある。意識は意根より理性を有するが、意根の感情的傾向は意識より深刻である。意根が特定の音声を聴きたいと欲すれば、意識は意根の命令に従いその音声を分別せねばならない。意根が六識を出現させたいと欲すれば六識は直ちに現れ、意根が六識の出現を望まなければ六識は現れず、意根が六識に如何なる造作を要求しても六識はその通りに従う。

仏法を学び修証する際、意根に力を注がず意識心のみに注力し、意識心上で無明を破ろうとしても無駄である。力を尽くせば意識は消滅する。証果が意識心上でのみ達成されれば、証し終えた瞬間に消滅し、残された意根は依然として無明に覆われたまま、我々は生死輪廻を続けることになる。生死の問題は意根に存し、十二因縁の鍵も意根にある。意識を修する最終目的は意根に影響を与え変更するためであり、意識は拡声器・参謀・助手に相当し、意根が方策を決定するのを助け、最終的に意根の無明を転換させる。意根が変更された後は、意識は意根を熏染する必要がなくなり、両者は再び和合して善法を造作する。

意識は従属的地位にあり、意根は彼を用いても用いなくてもよい。用いられない時、意識は何物でもない。古来より無数の人々が意識心上で旋回し続け、遂に門戸を得られなかった。我々は悟りを開きたく願うが、意根に到達せず修行すれば悟りは開けず、仏法が如何に優れていても意根に認可されねばならない。意根が一旦認可すれば、自らを律し選択的に六識に業行を造作させ、無意味な事柄を再び造作せず、意根が全てに無意味を感じれば六識は造作を減らすだけでなく出生しなくなり、遂には意根自身も滅して涅槃に入るのである。

——生如法師の開示
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